甲賀武士と甲賀忍者・・・・・甲賀忍者とは何者か

甲賀武士とリアル甲賀忍者

 中世の頃荘園が崩壊する中で、甲賀武士たちは元々異なった出自を有する者達であったが、基本的に田んぼを所有してその経営を行う農業者であった。たとえ自ら手を汚して耕作を行わないまでも、百姓として村の仲間達と中世郷村の自治を行っていた。ただ彼等は村の治安維持・防衛に責任を負う武士の仕事も同時に行った。つまり半農半武なのである。別の云い方をすれば彼等はそれぞれの村にあって、村の自治と防衛の中心であった。そして時代の進展と共に同名中惣という村の自治組織や、川筋や平野の地形に応じて近隣の複数の自治組織が集まって地域の自治の協定を行い、遂には信長が近江にやって来る頃には甲賀郡全体で「甲賀郡中惣」という広域の自治組織を形成し、奉行を出し合ってこれを運営して見せたのであった。

 その甲賀武士たちが一度び他地域の大名等から声を掛けられ戦闘支援や情報活動を求められた時、彼等は自律した自主的な集団として戦果を挙げたのであった。その彼らこそが真の甲賀忍者・リアル甲賀忍者であった。批判を恐れずあえて少しばかり断定的に言えば、甲賀忍術という技(技術)を習得したから甲賀忍者になれるのではなく、甲賀における自地域や組織の運営を自律的かつ自主的に行える人(人格、人間)となることができて初めて甲賀武士となりリアル甲賀忍者になり得たのである。

今も残る中世甲賀武士の名前

 中世には甲賀の惣社とも称された油日神社には、厚い木板に墨書された「油日御遷宮御奉加之人数」なる16世紀の修復時の寄進者名簿が存在し、ここには戦国時代にこの地域(杣川流域)周辺に実在した数十名の甲賀武士の名前が残されている。上野氏、大原氏、篠山氏、和田氏、望月氏、鵜飼氏などなどである。

甲賀忍者の起こり―長享の変(鈎の陣の陣)の位置付け―

 足かけ3年に及ぶゲリラ戦による甲賀武士たちの抵抗の末、将軍足利義尚は鈎の陣中で横死し、結果として六角・甲賀武士連合軍の勝利となった。負けた将軍の軍では兵たちが全国へ戻り各地で甲賀武士たちの奮戦ぶりと自分たちの苦労を語り、その結果甲賀武士の有能さを宣伝することとなり、「甲賀には素晴らしい忍びが居る」とのうわさ話を作りだした。以後戦国時代にかけて多くの地方戦国大名たちが甲賀者を抱えて行った。

近江戦国余話のうち甲賀忍者外伝

戦国時代の甲賀は人材の宝庫

 2020年は東京オリンピックが開催されるはずであったが、早春に突如出現した新型コロナウイルスのせいで全世界が動転し東京オリンピックは延期となった。他方この年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』は出足の混乱にも関わらず、オリンピック・パラリンピックが予定されていた時期約2か月の中断期間はあったものの、どうやら少し短縮された形で完結しそうである。

 多くの人は明智光秀が何故本能寺の変を起こしたかに関心を寄せておられる風だが、実は当然のことながらドラマの大半は光秀の出世物語である。別の云い方をすれば、光秀は60年以上の全人生を掛けて信長を倒そうとした訳でなく、結果論的には「光秀は織田政権(或は織田軍団)の中で如何にして有能な人材足り得たか」を描くのに時間をかけているのであろう。

 この織田政権の中で、柴田勝家らの譜代の家臣に伍して、重要な家臣となり才能を発揮したのが光秀であり秀吉であったが、同じ時期近江国甲賀郡から幾人もの人材が織田政権の浮揚に貢献しているのである。光秀や秀吉の外にもこんな者達がいたということを世間に知ってもらう意味で、また秀吉や家康の政権浮揚に貢献した外様者達も多かったことを知ってもらう意味で、今回は甲賀の関係者に限りご紹介しようと思う。400年以前の昔、東海地方出身の英傑たちに甲賀から協力した彼らこそが戦国時代に活躍した甲賀の忍びと同根の者達だからである。

 ところで、この様なテーマでこの文章を書くことになったのにはいささかの事情があったので、異例ではあるがどうしてもここでそのことに一言触れておきたい。本テーマは、2020年8月8日に開催予定であった近江歴史回廊倶楽部の夏の例会での「近江源氏」や「近江古代史」の講演会が新型コロナのせいで出来そうにもないので「もっと気軽なテーマ」で一時間ほど場を持たせて下さいと5月頃に頼まれて、それではとこちらも気軽に引き受けた時に考えたテーマである。

 所がその後この気軽な企画そのものも新型コロナの再燃を受けて取り消しとなり、代わりに講演で話す予定であった内容を紀要の形にして提出してくださいと指示されたので、実はこの数か月困り果てていたのである。それは世人は紀要とは正確な記録だと思い込んでいる風があり、「気軽な内容の話」と「紀要に書き残すべき正確な内容」とがどうしてもなじまないからある。

そこで悩んだ結果遂に、我々の組織は素人の集まりであって正確無比な歴史記述を残すことなど本来期待されていないのだという、言い訳を見付けたのである。つまり若干の事実誤認や、調査不足による空欄や、解釈の間違いは専門学者なら致命傷となっても、我々素人には許される。必要があれば気が付いた別の仲間が追加調査や研究をすればよいとする考え方である。

 今回の内容は皆さんに気付いて戴くことを第一義にしたので、当然浅く広く触れて行こうとするのだが、本来私はそんなに物知りではなく、調べて紹介するにしても浅学非才の為広がりにも奥行きにも不足が生じがちで、正直恥ずかしい状況である。しかしそれを敢えて強行させていただいたのが本稿である。各位のご指摘、ご教授を期待すること切である。

1.信長に臣従した甲賀出身者

 近江国甲賀郡と尾張国は隣国でもなく、中心地同士で直線距離80km以上離れている。それなのに450年もの昔、なぜこんなに多くの甲賀人が織田政権の確立に関わっているのだろうか。特に注目すべき点は彼等のほとんどが自らの意志で織田家に近づいたと思われる点である

 甲賀から織田家に仕えた最初の人物ではないかと思われるのが池田恒利である。恒利は甲賀郡瀧村の出身で多喜氏(滝氏)の一族であったが、隣村の池田村の池田氏の養子となり池田を名乗ることとなった。最初室町幕府の奉公衆であったが、事情は分からぬが比較的若いうちに尾張の織田信秀(織田信長の父)に仕官したという。天文5年(1536)に恒興が生まれて2年後の天文7年(1538)に恒利は尾張で没するが、この間、妻養徳院が天文3年(1534)年に生まれていた織田信秀の三男(後の信長)の乳母となる。恒利自身の織田家での活躍振りは必ずしも明らかでないが、養徳院が乳母となった採用の経緯もよく分かっていない。

 池田恒興は恒利の嫡子である。恒興(勝三郎、信輝)は母養徳院が信長の乳母であったので、信長の乳兄弟として幼少時から信長の遊び相手であった。従って信長の信頼が厚く武将として出陣するよりは内政的な部分をより多く担当したものと思われ、後に犬山城の城主となるが、大きな戦いでの武功は余り知られていない。信長時代の元亀元年(1570)に池田村の金龍寺の梵鐘に池田信輝が寄進した旨刻印されていたことが『甲賀郡志』(1)に記録されており、更に隣村同士の池田村と瀧村の共有の神社であった檜尾神社の本殿再建時の棟札に「天正8年(1580)庚辰11月28日願主池田勝三郎信輝」とあり(2)、恒興が母の出身地である池田村に寄進を繰り返していたことが分かる。

 織田軍団で四天王の一人と称された滝川一益が甲賀の出身者であることは一部の方にはよく知られている。甲賀郡瀧村の出身で伴・大原一族の多喜氏(滝氏)の出自を有し、一時父親と共に櫟野村の滝川城にいたことが知られている。その後事情があって尾張へ行き織田信長に仕えたとされるが、その事情の一部とは池田恒興と滝川一益が従兄弟(父親同士が兄弟)であることであって、一益は恒興の紹介で信長に臣従することになったものと思われる。一益が大原同名中の一員であることを自ら認めた書状が田堵野村の大原本家に残されており(3)ほぼ間違いのない史実であろう。一益は織田軍団の中では初期に伊勢方面、長島一向一揆などの平定に貢献し、一時摂津方面に城持ちで活躍した後、後半には信州・甲州・関東方面に転戦し最後は関東御取次役として上州厩橋(現前橋)城に入った。本能寺の変の際には関東にあって敵に包囲される状況となり、尾張へ戻るのに日数を要したため清須会議に遅れて出席できず、その後は秀吉に冷たくあしらわれることとなった。

 佐治為興(信方)は小佐治村の佐治氏の分家である隣村伊佐野村の佐治氏が室町幕府守護大名の一色氏の招きで尾張国知多半島大野城に城代として入城した後、三代を経てその間に大野城主となったものである。為興は信長の妹お犬の方を娶り、信長とは義兄弟である。つまり信長の妹お市の方を娶った浅井長政と同格の人物である。為興は大野を拠点に伊勢湾の制海権を持っており、信長からは伊勢湾の商業権の安定的確保と岐阜・近江・京都と進出して行く織田軍団の後方の守りを託されたのであった。大野佐治氏は浅井氏のようには信長に背くことが無かったので有名にはならなかったが、小佐治村の佐治家当主佐治為次には常に最新の織田軍団の動向が伝えられていて、甲賀武士たちには伊賀武士たちのように信長の実力を見誤って無謀な戦いを続けるということが無かったのである。つまり当時甲賀在住の佐治為次は信長の直臣ではなかったが、早い時期から信長政権に協力の立場を取り、甲賀武士団にあって冷静かつ敏感なアンテナの役割を果たしたのである。なお、荒尾氏は一旦絶えた家系を大野佐治氏が養子を入れて再興したもので、実質佐治氏即ち甲賀武士の分流である。

 和田惟政は和田(わた)村の和田本家筋の出自を有し、その家系は古くから六角氏の有力被官となり湖西での代官的役割を果たす一方(4)、室町幕府にも古くから奉公衆として勤めていたことが知られている。細川藤孝らと共に興福寺から僧覺慶(後の将軍義昭)を救出し、和田村(公方屋敷跡)で一時匿ったことで知られ、信長と義昭を繋ぐ役割を果たした。その後芥川城・高槻城の城主となるが、荒木村重とのいざこざで戦死した。

 和田貞利は和田村の分家筋の当主又は惟政の弟とも云われるが確定できない。尾張方面へ早くから進出し、信長の下で黒田城主となるが、天正2年(1574)伊勢長島での一向一揆との戦いで戦死した。嫡子が後に家康から感状を受け取った和田八郎定教である。定教は天正9年(1581)の天正伊賀乱には惟政の息子と共に織田軍の一翼として伊賀へ攻め込んでいる。

 高山右近は父高山友照が甲賀の高山村の高山氏の出自とされ右近も甲賀の血を受け継ぐとされる。特に幼少期には本貫地の高山村に戻り飯道山で修業したという。松永久秀の下で信長に反抗するなど、必ずしも信長の信任厚い臣下とは言えないが、最終的には高槻城主として織田政権に貢献した。

 山岡景隆・景佐・景猶の兄弟は毛枚(もびら)村を本貫地とし栗太郡瀬田へ進出して約100年になる元甲賀武士山岡家の一族である。父は瀬田城主山岡景之(景信)母は和田惟政の妹(または娘とも)で、信長の義昭を奉じての上洛に際し六角氏の意向に反して信長軍を受入れ通過させたばかりでなく、その後も信長の上洛時には常に定宿の如く信長一行を受け入れた。天正9年(1581)の天正伊賀乱に際しては織田軍の一翼として信楽口から伊賀へ攻め込んでいる。また本能寺の変直後には、明智光秀の申し入れを断り、瀬田の唐橋を焼き落とし明智軍の安土への進軍を遅らせたことで有名である。

 山中俊好は宇田村の山中両惣領家本家筋の出自を有し、甲賀郡中惣の有力者として振る舞っていたが、野洲川原の戦いに於ける敗戦の後、甲賀武士の六角方から織田方への転向を中心になって取進めた模様で、その後も信長の安土城下建設に甲賀の資材を大量に提供する役割を演じている。(5)また天正9年の天正伊賀乱に於いて俊好は織田軍の一翼として甲賀口から伊賀へ攻め込んでいる。傍系の山中長俊はこの時期柴田勝家軍の一翼を担っていたと云われ、広い意味で織田軍団の一員であった。

多羅尾光俊は、古来近衛家の荘園が存在した信楽に近衛家が残した御落胤がその後多羅尾氏を名乗り、荘官として成長する過程で長享元年(1487)同じ近衛家の武門の出である鶴見氏が治めていた小川城を攻め取った一族の末裔である。甲賀武士団の中ではやや特異な行動をすることが多かったと云われ、六角氏からも比較的早くから離反し、織田氏にも早い時期から接近し、最終的には織田政権下で3万石相当の扱いを受け、信長の命で五男藤左衛門光広を宇治田原の山口甚助の養子に出すとともに、天正9年(1581)の天正伊賀乱にも息子達と共に織田軍の一翼として信楽口から伊賀へ攻め込んでいる。

2.豊臣秀吉に臣従した甲賀出身者

 秀吉に仕えた甲賀出身者の多くは信長時代の引き継ぎである。秀吉が独自に迎え入れたのは中村一氏、施薬院全宗、木喰応其くらいである。秀吉は甲賀武士を早々に改易(取り潰し)したし、甲賀武士たちも秀吉を嫌っていたので進んで秀吉に臣従することが無かったのである。

 中村一氏は池田恒利や滝川一益と同じ瀧(多喜)村の出身である。池田恒興の娘を妻にしており、出自も彼らと同じ伴・大原系の多喜氏とされるる。若い時から秀吉に仕え、秀吉の長浜城主時代に200石取りに出世したのが昇進の始まりという。天正13年岸和田城主から水口(現水口岡山)城主になる際、秀吉の「甲賀ゆれ(甲賀破却)」を現場で指揮し、ほとんどの甲賀武士を改易・追放した甲賀で最も評判の悪い甲賀出身の武将である。その後豊臣政権の中で出世を続け、家康の江戸移封後の駿府府中城主となり、秀吉没後には五大老、五奉行の中間の三中老の一人となった。しかし、関ヶ原の役直前に東軍に与し、戦後息子一忠が米子城主となった。

 池田恒興は本能寺の変の時兵庫城主であって、山崎の合戦に秀吉方で参戦して勝利に貢献し、織田家の宿老として清須会議に出席して秀吉の意見に賛同することで会議の方向を秀吉有利に導く重要な役割を果たした。しかし2年後の小牧長久手の戦で恒興は秀吉軍の一翼として出陣し、長男元助と共に戦死した。このため両名の墓所が岐阜に置かれ、池田家の出身地があたかも岐阜池田町であるかの如く長年誤解される原因となった。

 池田輝政は池田恒興の二男である。輝政が小牧長久手の戦で生き延びた結果、秀吉は恒興と元助を戦死させたことに負い目を感じたのであろうか、輝政と弟の長吉を大事に用い、輝政は大垣城主・岐阜城主・吉田城主等を歴任すると共に、のちに豊臣姓を与えられ秀吉の斡旋で家康の娘督姫を後妻として娶ることとなった。また関白秀次に付属していたが、秀次事件では関係者のほとんど全員が処刑されたのに対して、輝政のみは一切の罪を問われなかったという。

 池田長吉は池田恒興の三男である。1581年には秀吉の猶子となり、羽柴姓を名乗っている。兄の輝政同様豊臣一族並みの扱いで優遇され、2万2千石を与えられている。

 佐治一成は大野佐治氏佐治為興の嫡子である。為興が伊勢長島で戦死してのち大野城主となり、本能寺の変の後、秀吉の斡旋で浅井の三女お江(実は母親同志が実姉妹で一成とは従兄弟に当たる)と結婚する。しかし小牧長久手の戦いに於いて一成が家康寄りの行動をしたと秀吉から疑われ、改易された。一成は伊勢湾を渡り、対岸の伊勢へ落ち延びたという。

 山中長俊は柴田勝家配下の武将であったが、賤ヶ岳の戦いに於いて敗戦して一旦無役となるものの、その後丹羽長秀、堀秀政と寄食し、最終的には秀吉に認められて祐筆となった。事務官僚として有能であったらしく、伏見城や大坂城での働きぶりは関ヶ原の西軍敗戦後にも家康に認められた。

 多羅尾光俊は甲賀ゆれに際して他の甲賀武士たちと同様に改易されるはずであったが、たまたま小牧長久手の戦に向う浅野軍を信楽で足止めしたために、浅野長政の斡旋で秀吉政権に加わることになった。その後浅野長政の娘を三男の嫁にもらって秀吉の姻戚にもなり、関白秀次の側近ともなり一時は8万石以上となるが、秀次の自刃の際に改易された。

 高山右近は豊臣政権下では高槻城主として貢献したが、キリシタン大名であったため秀吉の切支丹禁止令により大名を辞して前田家に寄食し、最終的には家康によりマニラへ追放され、同地で没した。

 施薬院全宗は飯道山の山麓三大寺村の出身或は三雲氏の出自とされるが、いずれも確証がない。ただ飯道寺で山伏の修業をしたのち延暦寺の里坊薬樹院で天台僧として修行中に織田軍による比叡山焼打ちに遭遇、戻る所が無くなり京へ出て当時飛ぶ鳥を落とす勢いの曲直瀬道三に医術を学んだ。その後全宗は認められて豊臣秀吉の侍医となり、比叡山焼き打ちに加担したことに悩む秀吉から多くの金銀を引き出し、根本中堂を始めとする比叡山延暦寺の多くの堂塔の再建を行った。今日われわれが世界遺産としての比叡山を目にすることが出来るのは全宗のお陰である。全宗は甲賀武士ではないが戦国時代に甲賀から出た文化人として特筆すべき人物である。

 木喰応其は実は甲賀出身ではなく、六角氏系の武士の家系の出自を持つ東近江出身の人物である。ただし飯道山での修験道の修行の後、高野山に上り真言密教を学んだ。その最中秀吉による高野山攻めに合い、あわや比叡山同様の焼き打ちに遭いそうになった。この時応其は高野山を代表して秀吉と交渉し、高野山は抵抗を止め秀吉に焼き打ちを止めさせることに成功した。その後秀吉と親しくなり、秀吉から潤沢な資金を調達し、高野山の多くの堂塔の建立・整備を行った。高野山が比叡山と共に世界遺産として存在するのは木喰応其のお陰である。山中長俊と施薬院全総と木喰応其の三人が揃って秀吉や家康や蒲生氏郷らと高野山上の連歌の会に臨んでいる記録(6)が存在する。秀吉の没後高野山での立場が弱まった応其はその後飯道山に戻り、その山上の庵で遷化した。

3.徳川家康に臣従した甲賀出身者

 徳川家康には元々三河の地元を中心に譜代の臣が多く、関ヶ原で急に東軍につき親藩となった地方大名(中村一氏も元は甲賀だがこの一例)を別にすると、武田の武将を結構な人数抱え込んだほかは、家康直下で働いた東海地方以外の地方出身の有力武将は多くない。その中で甲賀からの家康への臣従者は異常に多く、特に織田・豊臣と乗り越えて来た者達はかなり厚遇されている。

 池田輝政は秀吉恩顧の大名であったが家康の娘督姫を後妻に娶ったことが大きく貢献し、石田三成と敵対し、関ヶ原では東軍につき、戦後親藩として姫路城で百万石近い所領を得た。次の代では鳥取藩と岡山藩に分かれたが、合わせて60万石以上で西国大名たちに対する抑えとされた。

 池田長吉も秀吉恩顧の武将であったが、兄の輝政同様石田三成と敵対し、関ヶ原では東軍で戦った。関ヶ原勝利の直後直ちに水口岡山城に攻め懸り、長束正家を城から追出し日野で自害に追いやった。数か月の水口城管理の後、鳥取城主となって赴任するが、今一つ家康と合わなかったのであろうか、鳥取城主の役は自分の息子ではなく、兄輝政の二男(実は家康の孫)に明け渡している。

 中村一氏は秀吉恩顧の大名であったが、元々石田三成とそりが合わなかったのか、或は駿府府中城主として、上杉征伐の道中にあって家康の大軍の前では反旗を翻せなかったのであろうか、関ヶ原の戦の少し前に東軍入りを決めている。しかし一氏自身は戦の直前に死去し、弟一栄や息子一忠らが関ヶ原に出向いた。戦後一忠は17.5万石の米子藩主(伯耆守)となるが、1609年に20歳の若さで没したため後継者なく藩主返上となった。

 山岡道阿弥(景友)は山岡景隆の弟(四男)である。初め三井寺の光浄院で仏道修行をしていたが、一度信長の折に還俗し、秀吉の時代に再度仏門に入り光浄院主、秀吉の没後僧職のままで家康方に加担、関ヶ原では忍びを使って暗躍したとされる。戦後9000石で甲賀忍者「江戸甲賀百人組」の頭領となり、のちに上総国古渡藩の藩主となるが、直後に没したため藩主の地位は返上となった。

 多羅尾光俊は信長時代、秀吉時代とそれぞれ才覚で乗り切って来たが、家康から厚遇されたのは本能寺の変の直後の家康の堺から岡崎への逃亡劇を全面支援した功績を家康から認められたものである。多羅尾家は関ヶ原の戦の直前の段階で、既に信楽に於ける4000石以上の所領と3万石以上の徳川領の代官職を安堵されており、信楽代官職は江戸時代全期間延べ11代の世襲が実際に行われた。これらの実行は実際には関ヶ原の戦の後、代官職は光俊の二男光太に宛行われ、所領の安堵は三男光雅に対して実行された。二人は家康逃避行の際に既に支援の役割を果たしており、これらの実行は逃亡事件から約20年後の二人への論功行賞であった。

 山口藤左衛門光広は実は多羅尾光俊の実子六男であるが、信長の存命中信長の命令で宇治田原城主山口甚助の養子に出されていたのである。ここで本能寺の変が起こり家康一行が長谷川竹秀一の案内で宇治田原城に救援を求めて来たのであるが、この時山口甚助は既に病床にあったと思われ、半年後の翌年正月には病死している。よって実際に家康一行を接遇した光広のこの時の貢献を家康が記憶しており、光広は関ヶ原の戦い後家康から江戸へ召し出され500石の旗本になった。

 和田八郎定教は和田貞利の息であり、甲賀にあって家康の逃亡を支援する機会に恵まれ、人質を提供して支援活動を行った。家康から本能寺の変2週間後の日付の起請文形式の感状(7)を受領しており、家康逃亡劇に於ける甲賀越え支援実行メンバーの一人であることは間違いない。実際にはこれまた関ヶ原の戦決着後に惟政系統の和田氏と共に二家が旗本に起用されている。

 山岡一族の者達は秀吉の甲賀ゆれで20年近く甲賀や浜松・駿府で逼塞していたが、関ヶ原では東軍に与し、甲賀越支援での貢献を認められ戦後道阿弥以外に二家が旗本に任用されている。

 その他美濃部氏、武嶋(竹島)氏など幾人かの甲賀武士が家康の危機を救ったとして旗本に取り立てられている。また篠山氏などこれとは別の危機を救ったとして旗本に任用された者もいる。

 更に青木氏・黒川氏・三雲氏・伴氏・上野氏などかつて有力甲賀武士であったが甲賀ゆれで秀吉に改易されて甲賀からは立ち退いていたはずの者達が結構多人数旗本に任用されている。個々の家系をつぶさに調べてはいないが、どうやら甲賀ゆれの後、豊臣政権の時代にあえて浜松、駿府、或は江戸と家康の懐に飛び込んで仕官した者であろう。また谷氏・山村氏等甲賀武士としては目立つ存在ではなくどちらかと云うと有力甲賀武士の被官であったと思われる者達も幾人か旗本に任用されている。混乱の時代の風を捕えて、やはり浜松、駿府、江戸でうまく役どころを得て成り上がった者達である。

 近江国の12郡の一に過ぎない甲賀郡からの江戸幕府への登用者数が、500石以上の旗本に限れば、伊賀国一国からの江戸幕府への登用者数の2倍以上であったと云われている。その上、甲賀郡からは大名も出ており、その家老たち(和田氏や荒尾氏など)も含めるとさらに差は開く。要するに戦国時代甲賀には多くの人材が集まっていたと云えよう。

 これらの人材は主として飯道山の修験道の修業の中で涵養され、里に下りては村での同名中惣や郡を横断する甲賀郡中惣の運営に携わり、或時は各地の大名から個人や団体で呼び寄せられては甲賀の忍び(甲賀忍者)として重宝され、自らの意思で他所の大名に武士として売り込んでは武将として大成して行くという具合に、道は分かれたが元は同根の者達であった。(以上)

参考資料
(1)滋賀県甲賀郡教育會 「金龍寺」『甲賀郡志』 1926年 P785 
(2)鳥取市立歴史博物館 「檜尾神社棟札」『鳥取のお殿さま特別展図録』 2014年 P11
(3)甲賀市 「滝川一益と大原同名中」『甲賀市史』第二巻 2012年 P279 
(4)渡辺俊経 「沙沙貴神社懸額」『甲賀忍者の真実』 2020年 P42、43 
(5)松岡長一郎 「安土の摠見寺を目指して」『甲賀から移された文化財』 2013年 P106 
(6)和歌山県立博物館 「文禄三年三月四日高野山上連歌会」『木喰応其展図録』 2008年 P66
(7)天正十年六月十二日付け和田八郎定教宛て徳川家康起請文写 和田家

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