嵯峨源氏渡辺家の先祖たち
嵯峨源氏渡辺家系図
当家と当家の分家には少なくとも3種類の系図が存在した。甲賀郡杉谷村の渡辺本家である当家(仮に善右衛門家とする)には杉谷居住開始(1587)以来の系図であるX系図が存在したはずである。しかし、このX系図は文政~天保の頃の落雷による火災で焼失した。
他方、第1の分家である渡辺新右衛門家は実は杉谷移住時代から続くほとんど本家と同じ位古い分家である。しかもこの分家と本家は数代にわたり血統を交えており本家と同じ先祖から始まるほとんどX系図と同じ書き出しのC系図を保有していた。しかしこの家系は江戸時代から杉谷では医者を勤めながら尾張藩忍び役を務めて来たが、大正頃に忽然と杉谷から姿を消し、個人情報保護法の制約もあって現在連絡が取れない状態である。
この間、幕末近くになって分家した第2の分家である渡辺清三郎家(当家の西隣)はB系図を保有するが、当然のことながら当家から分かれたので当家と同じ前半を持ちその後半にこの分家の歴代が並ぶことになるはずであるが、なぜか第1分家の新右衛門家の系図もかなり詳しく書き込んである異色の系図である。このことはX系図が既に焼失していたので、B系図はC系図を基に作成し、それに当時本家で伝っていたことを追記したのであろう。
大正年間になって本家の渡辺平右衛門俊恒の次男渡辺順蔵によって埼玉県箕田神社宮司からの情報を取り入れた本家系図がA系図として再建されるが、ここにはC系図で甲賀への移住者として書かれている渡辺綱久が居らず、代わりに天正15年摂津からの移住者として渡辺久綱が杉谷渡辺家の初代として記述されている。ここの部分だけは詳細な再検討が要るが、A系図そのものは特に江戸中期以降は信頼できるものと考えてよい。
渡辺家過去帳
昭和17年渡辺泰治の死去に際し、妻渡辺久が菩提寺勢田寺の住職に依頼して、勢田寺の過去帳に記載されている情報を基に、当家に伝わる情報等を加味して作成したものである。残念ながら当家の歴史の方が浄土宗勢田寺の歴史よりも長く、勢田寺が天台宗であった時代の当家の記録が浄土宗勢田寺にはほとんど残っていない。
位牌
勢田寺の浄土宗転宗に貢献した渡辺俊弟(号性蓮)以外の位牌は恐らく死去50年ごとに撤去されてきたものと思われ比較的近年になくなった人の位牌以外は全く残存していない。しかし勢田寺の本堂祭壇左手の奥に勢田寺歴代住職の位牌と共に渡辺俊弟の大型位牌と渡辺家関係者又は里出集落の関係者のものと思われる大型集団位牌(月牌または日牌用)が元禄時代前後の日付と奉納者名つきで残っている。天台宗時代の渡辺家の歴代推移を解き明かす上で貴重な史料である。
トピックス
一石一字経蓋石
平成年間の新名神高速道路建設工事により旧杉谷村の山地の墓地(三昧)が高速道路の下に埋没することになった。この時墓地を移転するため各家ごとに墓標や墓石の下を掘り返して御先祖様に新墓地へ移転していただいた。当家では勢田寺の浄土宗転宗に貢献した渡辺俊弟(号性蓮)の石碑下を重機で掘り起こしたが、その際小石がぎっしり詰まった壺が石の蓋付きで出土した。中身は一石一字経であったが重機の為飛散しかつ蓋石も一部損傷してしまい、すべて回収とはならなかった。蓋石には墨書があり、解読した所俊弟の息子俊参(実は尾張藩甲賀五人の初代の一人)が父の供養の為村人に一字づつ経文を書いてもらっていたことが判明した。また、浄土宗とは異なる山伏の影が見える墨書である。
一石一字経蓋石翻刻文
善右衛門と平右衛門
下表は江戸時代の当家の現時点における全記録のリストである。祖母から聞かされていた、当家では善右衛門と平右衛門を代々交互に襲名していたということは、系図でもある程度判明しているが、更に当家に残る古文書類に記された名前でもそれが確認された。
幕末期「渡辺捨三郎」の比定について
2005.12.29記 2008.11.8追記 2022.12.22再追記 渡辺俊経
1.経緯
渡辺俊経家文書No.52『本藩御触書写』は幕末維新前夜の藩内の動きを映したものであるが、肝心のどの藩のものか判然としない。当然書写した渡辺捨三郎は甲賀渡辺家の一族と思われるが、出自が分かっていない。甲賀渡辺家本家とその別家群は尾張藩(本家)水口藩(宗十郎家=当時は御殿医)、岸和田藩(清三郎家)と3つの藩と関わりを持っており、渡辺捨三郎がどの家の者であるかが分かれば、自然にどの藩のものか分かるはずである。
2.一次検討の結果
最初、兄が吉次郎(吉治良)であり弟が竹四郎であれば中間の者が捨三郎であってもおかしくないと思われたので、渡辺俊盛(清吉)が兄から別家を引き継ぐまでの間まだ本家にいて渡辺捨三郎を名乗った可能性があると考えた。しかしその可能性は、俊盛(清吉)が1837年にはすでに分家していてその約20年後に本家渡辺捨三郎と名乗る(②)のは不自然である点と文書が署名(1856.12)(1864.12)された時にはすでに俊盛(清吉)は没して(1856.9)いて署名できない点から否定された。若し俊盛の没年が間違っていて、その没年は実は兄の俊貞のもので、俊盛は明治維新前後まで生きていたと言うようなことがあれば事態は逆転するが、そうでもない限り俊盛が捨三郎である可能性は無い。
俊盛(清吉)の子俊興(清三郎)であれば年代的には生存期間が文書の年代と合い、また後に利三郎と名を変えていた事実もあり、それと同様にある期間捨三郎を名乗った可能性は無くは無いが、清三郎はもともと別家(今も「新宅」と呼称されている)の生まれであって、本家を名乗ることは考えにくい。
水口藩の御殿医であった渡辺泰輔、宗十郎家の兄弟関係は詳らかでないが、更に数代以前からの別家であって、やはり本家を名乗ることは当時の常識からは考えにくい。
では本家でこれに該当する人物はいないか見てみると、男性で維新前10年間を生きた人物は渡辺俊恒(のち平右衛門)のみであり、また俊恒の男兄弟は系図上では早世した弟が一人いるのみで、他は女姉妹のみである。俊恒は長男であり本来捨三郎と呼ぶことはあり得ないので捨三郎は本家の人間ではないと一応判断せざるを得ない。
以上の検討の結果、甲賀渡辺一族には渡辺捨三郎と比定できる人物は存在しなかったことになる。
3.検討資料一覧
1)渡辺俊経家文書
①『本藩御触書写』 No.52 元治元年(1864) 渡辺捨三郎
捨三郎の出自如何では「本藩」が尾張、岸和田、水口の三つの可能性がある。
②『御高名寄帳』 No.140 安政3年(1856) 本家渡辺捨三郎
渡辺本家(現渡辺俊経家)の田畑別石高計算書である。とすると捨三郎は本家の人物か。
③(金子返済延滞願書)No.161 辰6月 ( ) 渡辺捨三郎、木村栄三
④『誓約之事』 No.137 天保8年(1837) 渡辺平内室ちか、善右衛門、清吉ほか
八重女とは渡辺俊貞の妻と思われ、渡辺清吉俊盛は天保8年後出のA系図の通り、兄の渡辺俊貞の別家を改めて引き継いだものである。
⑤『由緒書御届書』 No.144 明治6年(1873) 渡辺利三郎
渡辺三家(本家、宗十郎家、利三郎家)が同趣旨の届けを出しており、俊貞より3代と
あり利三郎は清三郎の明治維新以後の別名と考えられ、利三郎と清三郎は同一人物で
ある。
2)渡辺家系図
⑥ 『嵯峨源氏渡邉家系図』系図(渡辺本家(=現俊経家)系図)A系図
――俊宣―|―俊勝(善右衛門)―――俊恒(平右衛門)―――
|―俊貞(吉三郎、別家 系在別、仕泉州岸和田城主岡部家)
|―俊盛(清吉、仕泉州岸和田城主、同姓俊貞承名跡)
|―平四郎(信楽勅旨村大西家為養子)
独立して別家を設立した次男俊貞が子供が無いままに亡くなったためか、
三男の俊盛にその別家を譲っている。なお次男が吉三郎と呼ばれていたのは不自然であ
り、この点は後出B系図、C系図の吉次郎または吉治良が正しいのではないかと思われ
る。
⑦ 『嵯峨源氏渡辺綱一族系譜』P37、B系図、C系図
――俊宣―|―俊勝(仕尾州太守)―――俊恒(仕尾州太守)
|(善右衛門) (平右衛門)
| (文政9年ヨリ)
|―俊貞(仕岸和田城主)――俊盛(仕岸和田城主)――俊興(仕岸和田城主)
B系図 (吉治良) (清吉) (清三郎)
C系図 (吉次郎) (清吉) (清三郎) 俊盛が俊貞より一世代繰り下がっているが実際は両人は兄弟であり、本家の俊恒と俊興が同世代で本家と別家で最後のお城勤め同士であったことからも分かる。またA系図の吉三郎は間違いでB系図の吉治良またはC系図の吉次郎が正しかったものと思われる。
3)勢田寺過去帳
⑧渡辺俊昭家(現渡辺俊経家)
俊勝(善右衛門): 安政2年(1855)没
俊恒(平右衛門): 大正5年(1916)没
俊勝は明治維新の10年以上前に没しており、渡辺本家で明治維新を迎えたのは俊恒であり、
俊恒(平右衛門)は明治時代に第2代と第4代の南杣村村長をしている杉谷村の記録がある。
⑨渡辺清家(現渡辺利清家)
俊盛(清吉) : 安政3年(1856)没
俊興(清三郎) : 明治36年(1903)没
俊勝と同世代の俊盛(清吉)は俊勝同様明治維新の10年以上前に没していて、別家で
明治維新を迎えたのは俊興(清三郎)である。
4)外部資料
⑩岸和田藩甲賀士名簿(大阪中谷氏作成)
明治元年作成甲賀士名簿(馬杉彦十郎文書34番) 渡辺清三郎
明治3年士族禄制(大越勝秋氏史料) 渡辺清三郎
明治6年士族名簿氏名(大阪市史編纂室) 渡辺俊興
渡辺俊興(清三郎)が岸和田藩最後の甲賀士の一人であり、明治維新をまたいで生存した人物であったことが外部資料で確認できる。
⑪150年前の杉谷(「矢川大明神神輿再建勧化帳」嘉永6年(1853)より杣庄章夫氏抜書き)
明治維新の15年前の杉谷137戸中渡辺姓は11戸
渡辺善右衛門 渡辺泰輔 渡辺清吉
渡辺小右衛門 渡辺作右衛門 渡辺新左衛門 渡辺久左衛門
渡辺定助 渡辺文六 渡辺三五郎 渡辺源右衛門
上段冒頭の3戸は間違いなく渡辺本家と系図上つながりの確認されている別家2戸で
ある。またその他の8軒には渡辺捨三郎と比定できる人物は見当たらない。
4.追記
1)経緯
今般家内の文書等を更に精密に調べ、別紙のごとく事件を年代順に整理した結果、渡辺捨三郎は渡辺平右衛門俊恒の幼名であると比定してほぼ差し支えないとの確信を得たので以下にその推定根拠を記述する。
2)比定の根拠
今回得られた新しい情報は、平右衛門俊恒の父善右衛門俊勝の香典帳記載の「行年46歳」(No.139)と平右衛門俊恒自身が残した宅地図から俊恒が「明治17年に35歳」であったことが確定したことの2点である。これらによりそれぞれの生誕年が確定でき、各事件の際のそれぞれの年齢が判明した。また、過去帳を繰ると俊恒の生誕以前に少なくとも男子1名、女子2名の幼児幼女が死去しており家系の体質なのか天保期の食糧飢饉の影響なのか、俊恒の親即ち俊勝が子供を育てることに苦労していたことが推測できる。
先ず、生誕年を確定する。
善右衛門俊勝 文化7年(1810)生まれ 安政2年(1855)死去 行年46
平右衛門俊恒 嘉永3年(1850)生まれ 大正5年(1916)死去 行年67歳
更に別表の年表にその時期の渡辺本家の動静をまとめてみた。実は渡辺本家では江戸時代の後半に幼折や若死が多く、相続の困難に直面している。俊勝(善右衛門)、俊貞、俊盛、竹四郎の四兄弟の父俊宣(平右衛門)は栗太郡から迎えた養子である。先代の俊宗には俊明という長男がいたが25歳の若さで亡くなっている。そこで俊宣を養子に迎えるがこれまた36歳で亡くなっている。幸い俊宣は上記四人の息子を残してくれたが、次男の俊貞は一旦別家を創立したものの間もなく亡くなっている。この様な背景で本家長男俊勝(善右衛門)の長男として生まれたのが俊恒(のち平右衛門)であるが、この前後に幼折と思われる戒名に善童子、善童女が付く死者が多い。そこで俊勝は俊恒の長命を祈ってあえて「捨三郎」と呼んだのではないか。これはあくま
で推定である。現在のところ確定できる物証は出てきていない。
これらから分かる事は、善右衛門俊勝はその親平右衛門俊宣の行年36歳に続いて46歳という若さで2代続いて当主が若死にしたこと、そして待望の跡継ぎたる俊恒が生まれたのは俊勝が数え年40歳の時で、また俊勝が亡くなった年にはその一人っ子長男である俊恒はわずか6歳であったことである。
俊恒の兄・姉に当たる少なくとも3人の死があっての俊恒の誕生で、俊恒は兄達が生きていれば本当は長男ではなく、過去帳に記載漏れの男児の幼少死が更にあったかも知れないことも想定すると、少なくとも次男以下の生まれで、親の俊勝が生まれてきた俊恒に生き延びて欲しい一念で「捨三郎」と名づけた可能性は十分にある。
渡辺捨三郎が渡辺俊恒(平右衛門)であるとするとすべての矛盾が解消するのも事実である。安政3年(1856)の『御高名寄帳』は俊勝の死去の翌年の発給であり、6歳で家督相続した俊恒が7歳で幼名の「捨三郎」を用いて公式にお上に提出したものの控えと考えると理解できるのではないか。一般には書かない「本家 渡辺捨三郎」としたのも公式書類なので幼名のみでは不十分として殊更に「本家」を名乗ったのではなかろうか。内容も詳細で字体は手馴れていて本人の自筆ではなく近親者の代筆であるようにも思えるが、当時はこの程度の字を書く素養を7歳でも備えていたのかもしれない。
その後元治元年(1864)『本藩御触書写』を渡辺捨三郎名で残しているが、このとき俊恒は数え15歳である。俊恒に係る「起請文」が見付かっていないので、俊恒が正式に尾張藩に出入りを認められていたと断定は出来ないが、渡辺家系図の中では俊恒は「仕尾州太守」とあり、この年齢でも既に忍びの御用を承っていた可能性は十分にある。若しそうであれば、俊恒が尾張藩からの触書を書き留めたと考えるのが妥当であろう。というのはこの触書には「前大納言様」という「尾張藩での第14代藩主徳川慶勝を指す呼び名」が出てくることや、伊勢路という岸和田藩や水口藩では考えにくい地名が出てくることから、触書そのものが尾張藩のものであろうと推定されるからである。
3)検討の結果
90%以上の確率で渡辺捨三郎を渡辺俊恒に比定することが出来そうである。幕末の混乱の中での記録なので困難は予想されるが、藩の元治元年のお触れ発給の記録と照合する作業が残されている。
5.幕末期尾張藩触書の調査
1)経緯
最近になって幕末期尾張藩の触書が留帳として東京都豊島区目白の「徳川林政研究所」に残っていることが判明した。平成20年10月29日、同研究所を訪問し当家に残る触書と同じものが尾張で発給されていたかどうかを確認することとした。
残念ながら元治元年10月2日付けで甲賀へ向けて出されたであろう触書と完全に一致するものを発見することは出来なかったが、『本藩御触書写』中の一部については同文の触書が尾張藩内で発給されていたことを確認することが出来た。
2)幕末期尾張藩触書等の背景
元治元年の蛤御門の役から長州征伐へかけて将軍家茂が上京し、大坂城に滞在する時期、御三家の筆頭尾張徳川家は前藩主の慶勝が軍を率いて上京し更に広島まで遠征するのであるが、この間慶勝の動静を記した日記や道中御用などと共に、種々のお触れが種々の役職名で発せられている記録が役職別にほぼ日付順に留書として残されている。但しいくつもの役職からお触れが出されるが、元のお触れが引用されて次のお触れが出されるので、同じものが各所に重複して引用されている。また、役職によっては留書を作っていなかったのか或いは最終提出を怠ったのか、綴りの中には残されていないケースもある模様である。
3)『本藩御触書写』との照合
今回の半日の調査の範囲では、『本藩御触書写』と完全に一致する元治元年10月2日付の尾張藩の触書を見出すことは出来なかった。しかし『本藩御触書写』のなかの表紙から5ページ目の「御書写」からの数行は9月26日という日付も含めて同文が尾張藩文書(尾―1)16-1「前大納言様御道中触留」及び同17-1「京都大坂広島触留」の中に見付かった。又、6ページ目の「今般 前大納言様御事・・・・」から11ページ目までの文章は日付が10月2日でなくすべて10月4日にはなっているものの尾張藩文書(尾―1)13-3「前大納言様京都大坂広島御道中日記」、同14-1「前大納言様御上京並御下坂芸州御用留共」及び同16-1「前大納言様御道中触留」に同文が見付かった。
これらは出陣に際し家臣に注意事項や携行品を指示した具体的なものであり、甲賀在住の5人の甲賀者に対しても出陣命令が出ていて、それが当地で『本藩御触書写』として書き留められたものと思われるが、10月2日付の甲賀者に対する具体的な出陣命令書を今回は尾張藩文書の中に見出すことは出来なかった。推測するに、遠隔地の甲賀に対しては、藩内には10月4日に出す予定のお触れの内容を10月2日付けにして急いで発送した。しかしそれは甲賀の5人だけに対する緊急特別処置なので藩内の担当部署が判然とせず、出陣準備で混乱する藩内ではお触れとして記録されなかったのかもしれない。
また、出陣の結果の記録は見付かっていないし、渡辺家では幕末期の出陣に関する伝承は何も伝わっていないが、上記お触れでは長期にわたる参陣で鋤鍬やカケヤなど日用品の持参が義務付けられており、戦国期のような戦闘が続いておれば甲賀5人にも戦死者が出ていたかも知れない。第一次長州征伐では尾張藩はほとんど戦闘もせず引き揚げたので、甲賀五人にもさしたる損害もなく済んだが、何か理由があったのか第二次長州征伐への参陣を断っている。
4)再々検討結果
『本藩御触書写』は尾張藩のお触れの写しであることが確認された。よってそれを書いた渡辺捨三郎は渡辺本家でただ一人明治維新を迎えた男性であり、系図にも尾張藩に仕えていたと記されている渡辺俊恒(後の平右衛門)の幼名であるとほぼ断定できる。
5.結論
幕末期の渡辺家文書に登場する渡辺捨三郎は渡辺俊恒(のち平右衛門)の幼名であると比定するのが妥当である。
以上
渡辺綱久と渡辺久綱
嵯峨源氏渡辺家系図(甲賀渡辺家系図)にはA,B,Cの三系図が存在することは別のところで述べたとおりである。渡辺家が甲賀ないしは杉谷へ定住するに至る経緯が異なり、B,C系図では渡辺綱久が甲賀へ(又は近江へ)定住したとするのに対してA系図では渡辺久綱が杉谷へ初めて定住したとする。綱久と久綱を同一人物と考えてしまいがちなため、どうしてもどちらの系図も時代が合わぬことになってしまっていた。
B,C系図の嵯峨源氏渡辺半蔵家系図との近似性に注目し、かつ綱久と久綱は別人であるとして時代に合わせさらにA系図中の婚姻関係を加味して時代を整理した結果、下記のごとき統合案を思いつくに至った。若干推定が多く根拠に乏しいところは否定できないが、結果として戦国時代から江戸時代初期における当家の当主の歴代とよく一致するので、今後は本統合結果をD系図として当家の普段使いの系図として採用してゆきたいと考える。
現在当家から甲賀市に渡辺俊経家文書にA系図のコピーを添付して寄託しているが、近い将来渡辺俊経家文書を甲賀市に寄贈することになった際には本物のA系図を寄贈し、当家ではA系図のコピーではなくD系図を使用するつもりである。
以下は数年前系図の統合を検討した際の検討資料の一部である。