甲賀忍者に関する一考察

―『甲賀忍者の真実』の延長上にあるもの―

1. はじめに  スパイの歴史

 Terry Crowdyによると、「現存する諜報活動についての最古の記録は、ラムセス二世時代の古代エジプトとヒッタイトのあいだのカデッシュの戦い(BC1274頃)にまで遡る」という(1)。エジプトのラムセス二世葬祭殿など数か所の石壁面に残る記録によれば、北方遠征したラムセス二世とヒッタイト(現トルコ)から南方へ出向いたムワタリ二世がカデッシュ(現シリア)に於いて会戦した。この直前、ムワタリ二世が二名の斥候を放ちわざとエジプト側に捕縛されるように仕組み、ヒッタイト軍は未だ遅れていると偽情報を流した。この偽情報を信じたエジプト軍は未だ十分早いと思い長蛇の列をなして進軍していた。カデッシュに到着して野営を始めた先頭の軍団が偶然に捕縛した別の二人の斥候を追及した所、先の情報が偽情報で実はヒッタイト軍は目前に隠れていることが判明した。慌てて後方の軍団に急いで集結するよう連絡したが時すでに遅く第二軍団は渡河中に横からヒッタイト軍の戦車部隊の急襲を受け壊滅した。その後ヒッタイト側の緩みとラムセス二世の奮戦でエジプト側は何とか敗戦せずに済み、結果双方痛み分けとなった。以上が世界最古のスパイ活動の記録であるが、スパイ活動とは人類の争いや専制統治中の人民の中で相手を欺くあらゆる行為を意味するという。

 因みにこの数年後(BC1269頃)にラムセス二世とハットウシリ三世の間で締結された和平条約は、エジプトの6ケ所の碑文にはエジプト語のヒエログリフで、ハットウシャ(ヒッタイトの首都)から出土した粘土板にはシュメール語から借りた楔形文字を用いて当時の国際語であったアッカド語で、同内容が同時記録されている。記録された世界最古の国際和平条約であるとしてこの粘土板のレプリカがニューヨークの国連本部の安全保障理事会の壁際に展示されている。

 さてこのカデッシュの戦いは孫子の兵法が世に出るより凡そ700年早く、「忍術の始まりは孫子の兵法にあり」などという主張が馬鹿げていることを明白に示している。同様に韓国で云われているスルサ根源説や日本国内での聖徳太子、大海人皇子、楠正成などの有名人を忍者の始祖の如くに主張することにも無理がある。人類の争いが始まって以来、この様なスパイ活動はいたるところで日常的に行われていたものと類推されるので、少々のスパイや間諜の記録が出て来たからと云って、それは忍者の存在を示すなどとはとても云えないのである。

 では甲賀忍者や伊賀忍者は、人類の歴史始まって以来存在すると考えられるスパイ達と何処が違っていて、“甲賀忍者・伊賀忍者”と呼ばれているのであろうか。

2. 甲賀忍者とは

2-1甲賀忍者の誕生とその後

 古代の甲賀には、近江朝廷軍の兵たちが甲賀を移動した記録や源平合戦で甲賀の一部が戦場となった記録はあるが、基本的に源平の親族以外の一般の甲賀の者達が参戦した或は甲賀武士が存在したことを示す積極的な証拠はない。

 鎌倉時代には鎌倉から派遣されたいわゆる西遷地頭が甲賀に幾人か存在した可能性はあるが、武門としての目覚ましい活躍の跡は見当たらない。しかし南北朝期に入ると山中氏・柏木氏・美濃部氏・小佐治氏・神保氏など多くの甲賀の地侍たちが北朝方として、また頓宮氏・多羅尾氏・小河氏など一部が南朝方として参戦している。(2)この時例えば北朝軍で云えば足利尊氏・佐々木高氏(道譽)の軍勢催促を受けて、甲賀の武士たちは歩兵のサポートを受けつつ騎馬で戦闘する当時の通常兵力として北朝軍に従っている。

 室町時代には山中氏の一部は一時細川政元家の数千の兵を預かる等通常兵力の指揮官として活躍しており、また室町幕府将軍の親衛隊である奉公衆として岩室・多喜・佐治・服部・大原・鵜飼・望月等多くの甲賀武士やその被官であったと思われる種村・玉木・亀井・塩合などが京都で活躍した。(3)同じ時期近江の国の地元では別の甲賀武士たちが六角氏の被官となり、その中には和田氏や三雲氏のように上級幹部に出世するものもいたが、大半の甲賀武士は必ずしも六角氏と濃密な主従関係で結ばれている訳ではなかった。(4)

 ところが長享元年(1487)、時の室町将軍足利義尚が近江守護六角高頼を攻めるため京都から近江へ攻め込んだ長享の変(鈎の陣とも)において、高頼が居城の観音寺城を捨て甲賀へ逃げ込んだ時、攻め込んでくる幕府軍に対して甲賀武士たちが高頼を守ってゲリラ戦で応戦し、一年半の間守り切ったのであった。(5)一年半後義尚は栗太郡鈎の陣中で死去し、母親の日野富子に見守られて京都へ戻る義尚の遺骸と共に、全国から動員されていた兵たちもそれぞれの故郷へと帰っていった。そして兵たちが故郷で語った「甲賀にはすごい忍びが居た」といううわさが全国に広まり、戦国時代の始まりと共に各地の大名から甲賀武士への勧誘が引きを切らなかったという。戦国時代から江戸時代に成立したとする全国各地に50余りある忍術流派の内80%近くが甲賀または伊賀に起源を有するとする川上仁一氏の研究結果がそのことを裏付けている(6)。甲賀の忍びはこの時世間様の推挙で生まれたのである。

 この様な事実はなく甲賀の者達のねつ造であるとする見解は存在するが、鈎の陣所の存在も、義尚の陣中死去も、その間甲賀武士が負けたことはなく高頼を守り切ったことも全て歴史上の事実であって、目的を達成することなく大将が死んで軍を引いたのは敗北以外の何物でもなく、甲賀武士たちの勝利であることは誰も否定できない。ウクライナに於ける首都キーウと大統領をロシアの攻撃から守ったウクライナ軍の働きを誰も勝利と云わないでおけないのと同様である。

 この時、甲賀武士たちの一部は高頼の被官であったが、全員が高頼の指揮下にあった訳でなく、むしろ甲賀武士たちは自分たちの意志と合議で自律的自主的に戦闘を行ったことが重要である。即ち甲賀武士たちは高頼つまり六角氏に必ずしも隷属しておらず(7)、「戦時には協力」という言わば六角氏との契約を履行するために甲賀武士団として行動したのである。従って戦場では高頼が指揮を執るのではなく、地元に詳しい甲賀武士たちが共同で戦闘方針を決めたのである。

 その後何らかの形で記録に残る甲賀武士たちの活動としては、「鵜殿退治」とよばれる夜討・火攻めの上郡城の戦い(8)、「神君甲賀伊賀越え」と呼ばれる家康の逃避行への甲賀武士たちの協力(9)、伏見城への百人余りの甲賀武士の籠城参加(10)など徳川家康への協力が目立つ。しかし伏見城で籠城した際城代鳥居元忠の指揮に従った外は全て甲賀武士たちが自主的に活動しており家康が甲賀武士を直接戦場で指揮することはなかったものと思われる。実はこの籠城戦で長束正家による裏切りの呼びかけに応じた者が十数人発生したのは、元忠による指揮統制が甲賀武士に対して伝統的理由で緩かったせいで隙が生まれた為であったかも知れない。

2-2江戸時代の甲賀忍者

平成8年(1996)鬼頭勝之氏による尾張藩「甲賀五人」文書の発見(11)により江戸時代少なくとも190年間は木村奥之助と五人の甲賀の忍びそしてその子孫たちが尾張藩の忍び役を務めていたことが明らかとなった。その後も「渡辺俊経家文書」(12)や甲賀の地元の各種文書更に「杣中村木村本家文書」(13)などによって江戸時代の尾張藩甲賀忍者の存在はゆるぎない歴史上の事実となった。更に岸和田藩甲賀士五十人に関しても少しづつその忍者性が明らかになりつつあり、江戸時代甲賀にいて百姓の身分でありながら、尾張藩や岸和田藩に於いて忍びの役に付く者達がいたことは明白である。

3. リアル甲賀忍者見参 

3-1「リアル」の意味  その1

 この様に生身の生きた甲賀忍者が戦国時代と江戸時代に実際に存在したということは伝承としてはよく知られていたが、歴史学会では怪しげな存在であるとして少なくとも2000年以前は余り相手にされず、無視されて来た。しかし2017年文化庁により甲賀市・伊賀市が共同で日本遺産に登録され、「リアル忍者」発祥の地とされたのである。この時甲賀市・伊賀市から共同で文化庁に提出された日本遺産認定の申請書(14)には次の様に記述されている。(下線は筆者)

「忍びの里 伊賀・甲賀 -リアル忍者を求めて-
忍者は今や様々なエンターテイメントを通じてスーパーヒーローとして描かれ、世界の多くの人たちが魅せられている。忍者の名は広く知られていても、その実像を知る人は少ない。伊賀・甲賀は忍者の発祥地として知られ、その代表格とされてきた。
複雑な地形を利用して数多の城館を築き、互いに連携して自らの地を治め、地域の平和を守り抜いた集団だった。豊かな宗教文化や多彩な生活の中から育まれた忍術の世界。忍びの里に残る数々の足跡を訪ねれば、忍者の真の姿が浮かび上がる。
伊賀・甲賀、そこには、戦乱の時代を駆け抜けた忍者の伝統が今も息づいている。(後略)

 これは、忍者発祥の地にいながら歴史学会に忖度して遠慮していた甲賀市・伊賀市の学芸員が、それまで胡散臭い存在とされてきた忍者が甲賀や伊賀では生身の忍者として実在していたことを、勇気を出して宣言したものであり、文化庁がそのことを公式に認めたものであると云える。

3-2「リアル」の意味  その2

 では甲賀忍者たる戦国時代の甲賀武士とはどんな人物達であったのか。よく知られているように、この時代の甲賀武士は村々に住む地侍達であり、彼等は村にあっては大百姓として「同名中惣」という村の自治組織の担い手であり、村の外に対しては村を守るための城を持つ武門であると同時に周辺ないし郡内全域との交渉の代表者であり、時には「地域の連合惣」や「甲賀郡中惣」と称する自治組織の運営者(奉行人)でもあった。(15)

 蛮行を行う人間が一人でも居た時、それを説得しかつ自らをも律することのできる「力もありバランスの取れたレベルの高い人間」が多数人いて話し合いで解決することができれば蛮行を封じることが出来るが、自治を行うことの難しさはそんな格別に有能な人間を多数集めることは易しくはない点である。ウクライナに対するロシアの蛮行を世界の皆が話し合ってもなお解決できないことを見れば、話し合いで物事を解決することがいかに難しいかは明白である。

 しかし戦国時代の甲賀や伊賀には「力もありバランスの取れたレベルの高い人間」が多数いて、その者達が甲賀や伊賀で合議制の自治を行っていたのである。つまり、今からおよそ500年前、村や地域や郡域において世界に冠たる共和的自治を実行したのが「力もありバランスの取れたレベルの高い人間」である甲賀武士や伊賀武士なのである。

 この甲賀武士が甲賀忍者として活動した時、たとえ強力な外部指揮官が不在であっても、当然彼らは強い自律性や高度な自主性を発揮して躍動することが出来たのである。このような高い自律性・自主性こそが甲賀忍者の本質であり、リアル甲賀忍者の「リアル」とは実は当初の「生身の」という意味を越えて、「本当の、本物の、真実の」という意味を持つと解する必要がある。

4.リアルでない忍者達(Non real- ninja)(Unreal ninjaではない)

 少なくとも四つのカテゴリーのリアルでない忍者がいることを指摘しておきたい。第一は空想から創造された虚像の忍者である。江戸時代に創作・流布された読本、歌舞伎に登場する忍者から始まり、明治末期大正初期に流行した立川文庫の忍者達、太平洋戦争後に小説・マンガ・映画・TVアニメ・ゲームなどに登場する人間離れをした忍者達である。これに海外で誤解されて思い込まれている「忍者とは殺人鬼である」とする思想を体現する空想上の忍者達もこのカテゴリーに加えなければならない。

 第二は隷属したスパイ達である。「1.はじめに」の項で述べた如く人類の争いの歴史の初期から存在したと考えられる国家や地域や組織に隷属してうごめいたスパイ達は、言わば使い走りの下っ端スパイであって、決してリアル忍者ではない。孫子の間諜や古代朝鮮半島のスルサなども同様であり、日本の歴史上の人物もリアル忍者ではない。

 第三は実際には存在しない「忍術という名の武術」を体得していると称して無敵であるかの如く振る舞う武術集団である。日本国内には比較的少なく、護身術として役立つなどと云って女性を門弟とするなど海外に多いが、その海外の誤解者たちを創り出した元凶は日本国内にいる。そもそも忍術と云う武術は存在しないし、仮に特定の武術を会得したからと云って本物の忍者たり得ない点で生身であっても明らかにリアル忍者ではない。

 第四は戦国各大名や江戸時代の各藩に採用されて忍び役とされていた者達である。大半の大名国や藩では業務として忍び仕事を行うために特定の組織に属しその藩に100%隷属していた点で彼等は本来第二のカテゴリーと同じリアルでない忍者といえる。但し、江戸時代の尾張藩と岸和田藩では甲賀に百姓として在住し、忍び仕事の際に藩へ出向きその時のみ藩の一員となるとされ、尾張藩の例では藩は忍び役五人の甲賀での事件に介入することを意図的に避けたと思われる対応をしており(16)、甲賀五人は100%尾張藩に隷属している訳でなく、尾張藩はその点で自律性や自主性を担保していて尾張藩甲賀五人はリアル忍者であったとも云える。即ち戦国時代に家康と多くの仕事を共にしながらも、家康に隷属はせず、自律的かつ自主的に活動したリアル甲賀忍者の有り様と類似している。

5.忍者の座標 

5-1平面座標

 世の中の忍者達の中には多くのリアルでない忍者がいることが判明したので、リアリテイ軸(実在性と仮想性)と人間性軸(知性理性と暴力性)の二軸を用いた平面座標上に忍者達をプロットして見た。リアル甲賀忍者は想定通り第一象限の右上方に位置した。

5-2立体座標

 リアリテイ軸と人間性軸に独立性軸(自律性・自主性と隷属性・従属性)を加えた三軸で立体座標を作り忍者達をプロットした。リアル甲賀忍者が右手前上方に来るのは当然として、何をもって並のスパイと区別して普通の忍者とし、その普通の忍者に相当する者達をどう見つけ出してゆくのかが今後の課題となる。

6.あとがき

 戦国時代、甲賀武士は徳川家康と多くの忍び仕事を共にしたが、その時甲賀武士は常に自律し自主的に行動し、家康も甲賀武士を自分に隷属させようとはしなかった。しかし江戸時代となって家康の方針は変わり、甲賀武士をも江戸幕府や各藩の組織に取り込んでいった。尾張藩も初代藩主義直の時甲賀者を20人ほど採用し、藩の組織に組み込もうとしたと思われるが、どうやら甲賀武士とうまく行かず一旦全員解雇した。第二代藩主光友の時再度採用した甲賀の者達が木村奥之助と甲賀五人である。木村奥之助は武士として尾張藩内に取り込まれたが、甲賀五人は甲賀在住で百姓身分のまま「尾張藩に出入りした時のみ尾張藩の忍び役人となる」という変則契約を結んだ。(17)このことはひょっとして戦国時代のリアル甲賀忍者の自律性・自主性を別の形で甲賀忍者に担保した結果でなかろうか。

 翻って、戦国時代或は江戸時代の甲賀・伊賀以外の戦国大名や藩主に隷属していた間者たちは果たして本当の忍者であったと云えるのであろうか。敢えて問題提起したい。(以上)

参考文献資料

(1)「第一章古代」Terry Crowdy著『スパイの歴史』P17 日暮雅道訳 東洋書林2010
(2)「山中道俊・頼俊軍忠状」『山中文書』及び「小佐治基氏軍忠状」『小佐治佐治家文書』
(3)「甲賀奉公衆」『甲賀市史』P230
(4)村井祐樹「佐々木六角氏家臣団の実像」『戦国大名佐々木六角氏の基礎研究』2012
(5)「六角征伐と甲賀」『甲賀市史』第二巻P190及び「山賊の望月、山中、和田という者を頼み、同国甲賀山のなかに隠れて、行方知れずになりにける」『重修応仁記』
(6)川上仁一「全国の忍術流派」『神道軍傳研修所』ホームページ2008.4
(7)守護高頼発給文書は主として非支配地の高島の朽木氏と甲賀の山中氏、望月氏にしか出されておらず甲賀も非支配地の認識か。新谷和之編著『近江六角氏』P148戎光祥出版2015
(8)平野仁也「上ノ郷城合戦に関する考察」蒲郡市教育委員会『上ノ郷城跡Ⅰ』2012
(9)渡辺俊経「神君甲賀伊賀越と甲賀武士」『甲賀忍者の真実』P111 サンライズ出版2020
(10)「願書(甲賀古士奉公)」『渡辺俊経家文書』No.16
(11)鬼頭勝之「尾張藩における忍びの者について」『地方史研究』263号P69 1996
(12)甲賀市教育委員会『甲賀武士・甲賀者関係資料集Ⅰ渡辺俊経家文書』2017
(13)甲賀市教育委員会『杣中村木村本家文書』(未刊行)
(14)甲賀市「忍びの里伊賀・甲賀―リアル忍者を求めて―」『日本遺産認定申請書』2017
(15)「甲賀郡中惣の活動」『甲賀市史』第二巻P220 2012
(16)尾張藩は甲賀での甲賀五人と水口藩とのもめ事への介入を避けており、甲賀五人への少々の金子の支給で片付けようとの姿勢が顕著。甲賀市『渡辺俊経家文書』No.12
(17)「由緒書」『文化十一年達書并願留』.及び「昔咄」第二巻『名古屋叢書』第24巻P146

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