石川忠総が城主であった膳所城は今

  好天に誘われて膳所城址方面へ散歩に出かけた。桜が満開を過ぎ花吹雪が舞いだしていた。

  戦国時代、比叡山の麓の坂本には信長が光秀に作らせた坂本城があり、本能寺の変の後10日後には城主が居なかった。写真の左手奥に位置する大津港の近くに秀吉が作らせた大津城には後に京極高次が城主として入ったが関ヶ原の役の直前、お初の夫高次が東軍に組したため西軍の攻撃を受け、関ヶ原決戦の同じ日、大津城では高次が降参し、高次は一時的に高野山へ送られた。関ヶ原に勝利した家康は全国最初の大名普請として膳所城を本格的な城として建設し、順次譜代の臣下に護らせた。

  京都への出入りを監視し、京都の動きそのものを監視し西の大名たちに対する備えでもあったはずだが、その割には結構頻繁に藩主(城主)が交代を繰り返しており、平和の時代の城の割には落ち着かぬ感じがする。加藤家、戸田家、石川家、本多家などが数年から10数年で交代している。寛永11年(1633)には二度目の石川家が城主となり、石川忠総が着任している。恐らくこの直後に幕府より系図元史料(寛永書上)を提出するよう指示があり、寛永18年(1641)には『寛永諸家系図伝』が完成して幕府より刊行されている。  

  ところが『寛永諸家系図伝』に掲載された石川家の正統系図には石川家の先祖が家康の「神君甲賀伊賀越」に同行して貢献したことが記載されず、忠総は悔しい思いを抱いたのであろう。忠総はその後私的に刊行した『石川忠総留書』に於いて、実父の名や義兄の名を含む同行者の名前と共に「伊賀国を通る家康一行逃走ルート」を明示したのであった。しかしこの時点で実際に事件が起こった本能寺の変の天正10年(1582)から60年以上の年月が過ぎていたことに注意しなければならない。はっきり言って全く根拠に乏しい流言といえる。

  このような流言がまき散らされた原因として、石川氏と多羅尾氏との軋轢の可能性を直感していたが、今回なんとなく石川氏とその前任者戸田氏との微妙な関係もあったかもしれぬと思い始めた。戸田氏が鵜殿退治以来あるいはそれ以前から甲賀武士たちと交流があり、『石川忠総留書』より古い『戸田本三河物語』には明確に「家康たちは甲賀を越えた」と書かれているからである。

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