六角氏終焉の城石部城跡を訪ねて

  昨日、近江歴史回廊倶楽部の上嶋氏のご案内を得て、夏見城、針城、平松城、宮島城、丸岡城、石部城など野洲川の南側の丘陵上に並ぶ旧下甲賀郡の城跡を見学して廻りました。何れも保存状態は余り良いとは言えずどちらかというと城跡と認識することさえ困難なものもありました。しかし室町時代、戦国時代そして江戸時代のこの地の情勢を思い浮かべることが出来、とても楽しく充実した一日を過ごすことが出来ました。中でも石部城跡では、若干気付きがありましたのでメモしておきたいと思います。

  先ずひとつめはこの地域での青木氏の出没です。丸岡城は青木藤兵衛の築城であるとされ、鈎の陣の活躍で甲賀53家に名を残す青木氏の城は丸岡城and/or東丸岡城とされていますが、さらに青木氏は三雲氏が築城していた石部城に享禄年間(1528~1532)には進出し、その息子が石部家長を名乗ったと云われています。石部家清が六角氏滅亡時の石部城の城主です。この様に六角氏滅亡直前には青木氏はこの地では有力武士であったわけですが、その外に甲賀市塩野の天台寺院には青木氏の数代にわたる大型位牌が保管されておりその理由がよく分かっておりません。また、家康の母親は甲賀出身の青木氏の出であるという説を解く歴史家も居り、他方信長の配下ににも青木氏を名乗る者が居てしかも石部の真明寺を菩提寺にして当地に住み付いたという。誰か青木氏に関するすべてを整理してくれませんか。

        石部城跡(現善隆寺)・・・「いにしえの古城」より転載

  もう一つは石部家の墓石に関することです。今回私自身は実物を確認することは出来ませんでしたが、滋賀県立大学の調査によれば、墓石の戒名と石部城あとに建立された善隆寺に残る過去帳の記載を照合することによって、善隆寺に残る最も古い墓石が実はこの寺の開基(スポンサー)でもある石部家清の先代(馬之丞、家長?)の墓石で、恐らく天正10年代の建造であることが確認されたという。いわば中世文書といってもよいくらい古い過去帳が恐らく開山以来存続し、それを今見せてもらうことが出来るというこのすばらしさに感服しました。これによって石部城の城跡そのものは変わり果てて往古を再現することが出来なくても、過去帳の中から多くの過去を引き出すことが出来、現に青木家・石部家のことや三大寺家のことそして案内書などに書かれているような戦国から江戸時代にわたる多くの歴史の事実を見出すことが出来たのです。

  現代はプライバシー重視で寺に対して「過去帳を廃棄せよ」などというナンセンスな意見まで恥ずかしくもなく発言する御仁が居る様です。困ったものです。人種差別や奴隷制度や階級制度は過去の事実を隠すことが大事なのではなく、現代人の我々がこれらを撲滅しこれらに価値を置かない世界を構築する努力をすることがより大事なのだということを指摘したいと思います。3代前の親戚の戸籍謄本を取得できぬこのバカバカしさをどうしたらよいのでしょうか。

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