「甲賀武士」という用語そのものは大正時代に発刊された『甲賀郡志』に由来することを前回申上げました。しかし厳密に申し上げると、江戸時代前期に彦根藩に献上されたとされる『淡海温故録』には既に「甲賀武士」なる語が用いられていて、『甲賀郡志』ではその語が現代語として採用されたと云えます。今回はその『甲賀郡志』が甲賀武士をどう紹介しているかについて述べてみたいと思います。
先ず云えることは、甲賀郡志の著者たち即ち大正時代の甲賀の知識人たちは、甲賀53家や甲賀21家についてそれなりの実在感を抱いていたということです。ほんの半世紀前の江戸時代には53家や21家を名乗る家々が周囲に存在し、その人達に囲まれて育った明治時代であって、彼ら甲賀生れ・甲賀育ちの甲賀郡志の著者たちにとっては、甲賀53家や甲賀21家こそが甲賀武士であったと云えるのではないでしょうか。現在の甲賀では甲賀53家や甲賀21家に直結する方は極めて少なく、間接的に繋がる方や分家先や支流を含めてもせいぜい10家程度に減少しているだけでなく、第二次大戦以後は家筋に関することを話すこと自体がタブー化して人々はその種の話題を避けることとなって地元育ちの人でも甲賀武士に関する知識も意識も持たない人々が育っていて、最早甲賀の地元から53家や21家に関する歴史情報を得ることさえ困難となっております。でも甲賀郡志の著者たちは、各家に伝わる江戸時代文書や系図を入手でき、まだ地域に伝わっていた伝承と共に戦国時代以前の甲賀武士たちを描くことが出来たのではないでしょうか。
このような前提で甲賀郡志中の甲賀武士を見た時、甲賀郡志の著者たちは甲賀53家の家々こそが甲賀武士の本流であり、このことが認識されるきっかけとなった鈎の陣(長享の変)こそが甲賀武士にとって最も重要な戦いであり、甲賀の平穏と繁栄とはこの時の甲賀武士たちの団結によってもたらされたものであるとして、甲賀53家を取り囲む中間層有力者をも包含する甲賀郡域全体を覆い包む強力な一揆思想(その後「甲賀郡中惣」に結実していく)「甲賀は一つ」が機能したのが戦国時代の甲賀であったとしているように思われます。
甲賀郡志の中の具体的な記述をたどると第六編「町村」においては当時の各町村の一つ下の単位である大字(江戸時代の村、現代の区)ごとにそれぞれの地域の歴史的変遷を地元の文書や六角氏の記録を用いて論じ、村の由緒とそこに果たした各甲賀武士の位置付けを示しています。また第十九編「甲賀武士」においては甲賀武士の概略史をレビューしその根拠になる甲賀武士にまつわる文書類を紹介し、その上で甲賀53家のそれぞれにつき由緒書と各家の歴史を記述しています。各家の系図や江戸時代の御目見え記録等から甲賀武士各家がどの程度の勢力を有していたかを想像させる記録を残しています。
この時甲賀武士の概略史と甲賀53家各家の個別史を多くの由緒書を基に著述していますが、現代の歴史学者の多くはプロパガンダばかりだと云い信用できないと云いますが、私に言わせれば中央の権力者が書かせた文書を後生大事に信用し、そんな形でしか残すことが許されなかった地方の弱者や敗者の残した史料としての由緒書や系図資料を基に著述した地方の歴史、敗者の歴史を信用しない歴史学者こそ信用すべからざる存在であるということになります。
閑話休題。甲賀53家の話題に戻ります。今回はこの第四章「五十三家」に言及されている甲賀武士は何軒になるか数えてみたいと思います。
(1)冒頭の年代不詳の旧記(実は寛永11年家光御目見え記録)によると
山中 19家、 大原 15家、 望月 24家、 和田 5家、 池田 15家、 美濃部 4家、 鵜飼 28家、 服部 3家、 佐治 11家、 神保 2家、 上野 14家、 隠岐 16家、 多喜 11家、 岩室 3家、 大野 4家、 伴 10家、 芥川 8家、 合計 192家 これらは主として甲賀21家に近い者達で、かつ甲賀ゆれ、江戸その他への転出後の数字であるので、全甲賀武士の数は上記の2倍程度とすると、甲賀武士は約400人いたことになります。
(2)この章での各論集計
内貴 1家、 服部 3家、 宮島 2家、 針 1家、 夏見 5家、 三雲 1家、 鵜飼 25家、 青木 4家、 岩根 5家、 伴 10家、 上山 1家、 中山 1家、 八田 1家、 山中 ? 、 宇田 1家、 美濃部 ?(富川・神松‣武島・大谷・米田も) 新庄 1家、 大野 4家、 芥川 8家、 頓宮 1家、 土山 1家、 平子 1家、 大河原 1家、 黒川 ? 、 高野 1家、 上田 1家、 鳥居 1家、 大久保 1家、 大原 15家、 和田 5家、 高峰 1家、 上野 13家、 多喜 11家、 望月 24家、 池田 ? 、 野田 1家、 葛木 1家、 嶬峨 ? 、 隠岐 16家、 神保 1家、 佐治 11家、 岩室 3家、 倉治 1家、 高山 1家、 山上 1家、 杉谷 1家、 牧村 1家、 長野 1家、 小川 1家、 杉山 1家、 杉山 1家、 多羅尾 ? 、 小泉 1家、 饗庭 1家
以上家名54、 家数196+?×6(推定計約50家)=約250家(これに美濃部家の場合に偶々示されているような被官家や上記に含まれない独立の村例えば馬杉村の武士家(馬杉家、開田家、飯田家、多喜家など)推定トータル約100家を加えると)⇒約350家
以上をまとめると、甲賀郡志の著者たちが抱いていた甲賀武士の数は350~400家でこれを人数で表すとなると、分家前の息子を有する親がまだ現役ですと両方がカウントされるので、500~600人程度になるのではないでしょうか。この数字はいくつかの戦いに動員された甲賀衆の数が200~300人程度のケースが多く動員可能対象者の半数程度が動員されたと考えると理解しやすい数字と云えます。また関ヶ原の戦の折、伏見城に籠城した甲賀武士が百人強で同時期に長束正家によって水口岡山城に幽閉された甲賀衆が300人いたとされ更に正家の配下についていた甲賀衆も数十人は居たはずで、これらを合わせると550人以上となる事ともほぼ符合しています。
以上は暇な老人の数字遊びでした。