今回は、甲賀武士について現代の郷土史誌である『甲賀市史』はどう取り扱っているのかを見てみたいと思います。主として『甲賀市史』第2巻(中世)と第7巻(甲賀の城)そして第8巻(甲賀市事典)に甲賀武士についての言及が見られますが、第2巻の「はじめに」にうまく要約されている個所がありますので、そこの部分を以下に引用させていただきます。
「甲賀は、宗教的には延暦寺の影響が強いが、その一方では早くから武士が力を持った所でもある。加えて彼ら武士は、のちに述べるように、ごく少数がその力を競ったのではなく、拮抗する力を持った数多くの武士が、早い段階から歴史上にその姿を現していた。政治の中央で活躍する武士と関係する在地の武士も現れる。当然、支配を受ける人々の動向も複雑である。しかしそれは、一方では歴史のダイナミズムでもあり、中世甲賀の最大の特徴でもあろう。
甲賀の中世は、在地の村落に根を張り、村の活動を指導する土豪と呼ばれる人びとの存在によって特徴づけられる。彼らの活動は、取分け十五世紀後半の応仁・文明の乱以降から、戦国時代にかけて顕著であった。しかし、数十家にも及ぶと推定されるそれら土豪のなかからは、核となる家はあったにせよ、他を圧するような飛び抜けて突出した力を持つ者は現れず、むしろ拮抗した力を持つ数多くの土豪が、村落で活躍したところに、大きな特徴がある。
彼ら土豪は、戦国時代には「甲賀衆」と呼ばれ、一族が「同名中」として結束するだけでなく、複数の同名中が連合して「郡中惣」と呼ばれる一種の自治的な組織を作り上げていた。そして彼らが持つ高い戦闘能力は、近江守護六角氏に頼られたり、また時には足利将軍によって頼られるほどの強力なものだったのである。」
ここでは、53家や21家といった伝承の世界はかき消され、どんぐりの背比べ状態の多数の小規模な「土豪」という地元では使用されない歴史用語が用いられ、しかしそのどんぐり達が村や郡レベルで予想外に高度な自治を行い、同時に他方では大名や室町将軍にさえ重要視されるほど強力な武力の持ち主であったと言っているのです。これは地元の出身者ではない大学の先生や歴史の専門家たちが書いた歴史書だからできた客観的な評価ではあるのですが、あくまで教科書的・中央的・権力者的歴史感であって、地域に根付いた歴史にはなっておりません。端的に云って甲賀の中に根付いた53家や21家を尊重した地元の観察がなく、また甲賀忍者に結び付く展開も用意されていないのです。
第7巻をもって完結となるはずの甲賀市史が、第8巻(甲賀市事典)の延長戦が行われたのは上記のような問題点が露呈してきたことに対する対策にほかなりません。例えば東京の人が甲賀市史を手にしたとき、甲賀と云えば「甲賀忍者」が気になるとして第1巻から第7巻までの目次を探しても、どこにも「甲賀忍者」という章も節も項もないのです。やっと第8巻で「甲賀武士の諸相」という節の中の一項目として「甲賀の忍び」が取り上げられたのです。その後甲賀市に「甲賀忍者ファインダース」が設置され、磯田道史先生が団長に就任して種々の調査活動が活発に行われるようになり、今は甲賀市内での忍術古文書『間林清陽』巻中の発見に結びつくなど雰囲気が大きく変わりました。
以上どちらかというと問題点の指摘に重点を置いた形になりましたが、実は甲賀市史の重要性は、歴史の専門家たちが、甲賀武士たちが地元の村々で自主的・自律的に自治を行っていた一方大名や将軍に認められるほどに軍事的に強かった、と認めている点なのです。鉄炮が圧倒的な武力として戦場を席巻する以前の段階では、甲賀武士たちの自主的・自律的な戦闘の強さは目を見張るものがあったのではないでしょうか。このことが、甲賀武士が自分達仲間で集まった時、或は他の大名の下に集団で戦闘に加わった時、必ずしもその大名の命令一下による指揮下ではないのに目覚ましい戦果を挙げることが出来た時、「甲賀忍者の活躍」「甲賀忍びの仕業」と認識されたということです。
甲賀忍者とは忍術書をよく学んだ者でも忍術と云う術を武術としてよくよく体得した者でもありません。まして古い忍術書が発見されたからそこには忍者がいたなどということには決してなりません。中世から戦国時代、子供たちの成長過程で高度なリテラシーが涵養され、仲間を信じる教育が施された甲賀の村々にあっては、半農半武の甲賀衆たちが同名中惣を運営することで自治的な村の経営に仲間と協力し、その成果がいざという時の戦闘力に反映されるそんな世界が存在したということです。これこそがリアル甲賀忍者の源泉であったと云えます。