甲賀武士について(4)

  従来甲賀武士という時は、上甲賀郡と呼ばれることもあった野洲川と支流杣川の上流部分に居住する半農半武の武士たちを無意識に想像しながら話していた気がします。なぜそうなったのかは正直よく分かりませんが、ひょっとして江戸時代になって武士になった甲賀者の多くがこの東部地区の出身者であったからかもしれません。逆に野洲川下流域(下甲賀郡)や信楽地域からは江戸幕府に採用された人物が少なくせいぜい青木氏と多羅尾氏くらいしか知られていなかったということです。そんな訳で甲賀忍者という時は上甲賀郡取分け杣川筋の甲賀者を想定することが習いのようになっておりました。

  ところが6月18日(日)の第15回甲賀流忍者検定の併催行事「特別対談会」で磯田道史先生が話された中に下甲賀郡と信楽の甲賀者の話が出て来ました。その前夜に磯田先生から個人的に伺ったお話と更に本日(6月21日)のNHK[英雄たちの選択」を合わせると、どうやら江戸時代前夜下甲賀郡の甲賀者(の血筋)がとんでもない活躍をしているようなな気がします。天正13年(1585)の甲賀ゆれで多くの甲賀者が秀吉により改易され甲賀から追放されてゆく中で、正福寺村の青木氏一族と石部氏(又は元三雲氏系の石部一揆衆)がその西側に逼塞した山岡一族と共に強力な反秀吉連合を形成していた様で、これに信楽の多羅尾一族が加勢していた模様なのです。上杉征伐で東へ向かう家康一行が石部に逗留して水口岡山城での長束正家による陰謀に引っかからなかったのは、篠山理兵衛の機転ではあるのですが、元をただせば家康と石部氏らとの強い絆によるところが多かったのです。

  この下甲賀の動向は三雲氏を中核とする六角氏への強い臣従の傾向があり、実は信長軍に攻められた六角氏が滅亡の際最後に頼ったのが石部城であったことが示すように、上甲賀の限られた甲賀衆と下甲賀の多くの甲賀衆が六角氏を守る構図がありました。しかし同時に下甲賀の甲賀衆は室町幕府に奉公衆としても帰属していた模様で、彼らが織田政権の近江南部展開と共に信長や家康の協力者として取り込まれていったようです。

  特に家康については、父親廣忠は祖父清康が正福寺村出身の青木氏の娘に産ませたものであるとの説はかなり根拠がありそうで、これが下甲賀に家康が多くの支援者を確保できたもう一つの理由ではないかと考えられております。ここに秀吉政権下では三井寺に戻って静かにしていた山岡道阿弥が秀吉の死去と共に親家康路線で動きだし、甲賀衆に働きかけると共に自身は小早川の抱き込みに貢献し、戦時には東海方面に転戦して関ヶ原戦線を支援したのでした。9月の関ヶ原の戦いの局面では既にその2か月前の7月には多羅尾氏は家康支援を約束しており、近江国に於ける家康連合の一環を形成していて、上甲賀の甲賀衆が道阿弥に誘われて伏見城に籠城するのに比べると、動きの早さや潔さが目立ちます。関ヶ原前後に於ける青木―石部―山岡の親家康湖南トライアングル+多羅尾氏等云うのが磯田先生の想定で、これが時の戦局に大きな影響を与えたのではないかというご意見です。

  山岡氏は元々上甲賀郡の毛枚村の出自で当時の当主景隆は甲賀ゆれで毛枚村に引きこもっていて活動の目を摘まれており、かつ多羅尾氏も元々秀次に仕えて6万石を得ていたものが秀次に連座して没落しており、共に大きな力にはなりにくいものと思い込んでしまっていた傾向があります。しかし実態はこれ等の潜在的な反発力が隠れた連携力によって掻き起こされ、一つのうねりのような力になったものと思われます。彼らの甲賀武士というよりは甲賀忍者といった方がしっくりくるような動きが、実は下甲賀から湖南地方にあったことを再認識させられました。

  

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