昨日NHK大河ドラマ「どうする家康」を見ていて、作家のあまりにひどい歴史曲解ぶりに唖然として、暫く休んでいたこのブログを再開しようと思うに至った次第。いくら創作ですと云われても、多くの国民が視聴している公共電波それも国民の税金に近い視聴料で賄われている電波のゴールデンタイムの番組では、作家は余りにも史実に反する勝手な思い込みを前面に出すべきでないと心底思いました。私自身は作家の狙いとは全く逆の状況を想定しながら番組を視聴出来ましたので私に実害があった訳ではありませんし、また幸か不幸か若い人達のこの番組の視聴率は必ずしも高いとは言えないようですが、それでも彼らの歴史感にどんよりとしたダメージを残すのでは無いかと憂います。いくつかの問題点を指摘しておきます。
第一点は、奥方「築山殿」に家康が完全に支配されていることです。これはドラマの視点としてはあり得る設定ではありますが、歴史の現実からは無理筋と云えます。岡崎城に於ける不都合な真実が発覚した時、家康は苦悩しながらも毅然と信輝と築山殿と岡崎家臣団を処分したのであって、本能寺の変家康黒幕節が存在することは百も承知ですが、まして信長を自ら殺害しようと家臣と相談するなどあり得ない状況です。
第二には、信長が心の弱い変質者のように描かれていますが、それは作者の偏見で信長は普通に心の強い人であったと考えるべきでしょう。むしろ元亀の頃家康が信長の勢いに押されて次々と出兵に応じており、家臣の不満を抑えてでも出兵せざるを得ないと判断し続ける家康は信長に較べてはるかに心の弱い人であったと云えます。
第三には、服部半蔵正成がやたら便利で強い忍者兼武将に描かれていることです。服部半蔵のような人物は小説や演劇の世界では話の本筋には影響を与えないでしかも紙数や時間を稼げる恰好の道化や舞台回しとして一般的に用いられています。ですから岡崎生まれで忍者の訓練も受けていない服部半蔵正成が家康の若い時代から多くの伊賀者を抱えて忍者集団を動かしていたなどと設定されても驚きはしませんが、ただ彼は実在の人物であり、架空の道化者を起用するのとは違った配慮が要ります。即ち服部半蔵正成は忍者ではなく武将として育てられていた記録も残り、渡辺半蔵と共に「槍の半蔵」と呼びならわされていた史実があり、伊賀には訪れたこともなく、伊賀には知人も誰一人いなかったはずです。その彼が本能寺の変の直後の家康逃走劇に於いて伊賀者を呼び集め大活躍をして家康の窮地を救うという構図が見え見えになってきました。
史実は家康一行30数名は6月3日に宇治田原の山口城に立ち寄り、同日の夕刻には信楽の小川城に宿泊しております。かつこれらは全て生前の信長からあてがわれた信長家臣長谷川秀一の案内で到着しており、その後の支援も含めてほとんど全てが「信長政権に近い甲賀武士」達によって実施されたことは徳川幕府成立後の甲賀から任官した「500~3000石級の江戸幕府旗本」約20人の顔ぶれを見ても明らかであり、それに比べて伊賀からこの時の功績で採用されたと称する3人の旗本と200人の同心クラスのみすぼらしいことからも歴然としています。
以前であれば、仮にこのような史実が存在したとしても、たかが怪しげな忍者話であるとして人気のある面白おかしい虚構を押し通すことも許されたかもしれません。しかし今日ではいやしくも歴史の史実として忍者が取り上げられ「忍者学博士」や「忍者学修士」が毎年卒業して来る時代となった上は、それなりに史実を踏まえた設定や筋書の中で服部半蔵正成を舞台回しとして起用すべきではなかったかと思います。
因みに家康に小川城で一夜を提供した多羅尾家は、家康から代官職を任官し、最初は2万石程度から江戸時代末には11万石になるまで11代にわたる「永世代官職」を勤めている。