史料批判『寛永諸家系図伝和田定教家系図』と『石川忠総留書』 2025.01.18 ブログ 天正10年本能寺の変での信長の横死を受け、徳川家康が少人数で訪問中の堺から岡崎へ駆け抜けた際、従来は「伊賀を通った」とする説が幅を利かせていたが、近年は「伊賀ではなく甲賀ではないか」又は「伊賀を通ったとしてもほんの少しで大半は甲賀を通った」とする説が有力となりつつある。中には大和を通ったなどと