天正10年本能寺の変での信長の横死を受け、徳川家康が少人数で訪問中の堺から岡崎へ駆け抜けた際、従来は「伊賀を通った」とする説が幅を利かせていたが、近年は「伊賀ではなく甲賀ではないか」又は「伊賀を通ったとしてもほんの少しで大半は甲賀を通った」とする説が有力となりつつある。中には大和を通ったなどと云う的外れを主張するご仁も現れ、いささかてんやわんやとなっている。今回は近年の伊賀説のよりどころとされてきた『石川忠総留書』が史料としていかに批判に耐えられないかを示すだけでなく、新しく『寛永諸家系図伝 和田定教家系図』を甲賀越を支持する有力史料として提示する。
実はこの両史料は寛永20年(1643)ころに相前後して世に出ているが、そのデビューの仕方は大きく異なっている。平野仁也著『江戸幕府の歴史編纂事業と創業史』によれば、先ず家光の治世である寛永18年に江戸幕府から大名家とお目見え以上の御家人に対してそれぞれの由緒を示す系図(呈譜、または寛永書上)特に家康、秀忠、家光との関係性を明らかにする事象や証拠の証文を含む系図を提出するよう指示があった。各家からはそれぞれ原稿が幕府窓口へ提出され、幕府側の担当者からは原則として原稿の内容を重んじつつも、幕府側の意向や表現の仕方を加味した第二原稿、第三原稿が提示され、最終原稿に仕上げられ、その上でさらに漢文調の表現や体裁を全体である程度平準化して完成本に仕立てられた。この間わずか2年7か月であった。
忠総が大久保家から養子に入って石川忠総となった石川家や、その実家の大久保家は譜代の家臣であるので、それまでの家康、秀忠、家光の時代々々にしかるべく勤務評価を受けてきて今日の地位がある訳で、今更大権現などを持出して美辞麗句を並べ立てて徳川家への貢献を訴えることを禁止されたのではないか。あるいは天正10年の逃避行に同行したとしてもそれは家臣としての当然行為ないし日常行為であって徳川家への格別の貢献ではないとされたのではないか。書上の段階で禁止さたのか、それとも各家の書上ではそれなりに書かれていたものが、幕府の検閲でそぎ落とされたのか、詳細は不明である。譜代の御家人のほとんどすべての家が、完成された寛永系図中で家康の逃避行に触れておらず、統一感が強い点で書上段階では不揃いであったものが、提出後に幕府に於いて統一的にそぎ落とされたのではなかろうか。その結果、石川家も大久保家も寛永の系図中には神君への逃亡支援を記述していない。
他方甲賀武士和田定教家は外様であるのでその系図はおそらく提出された書上の内容が役人の手で事実かどうか検閲されたが、外様の場合は家系や由緒更には徳川家への貢献など存分に書かせたのではないか。外様の御家人たちに幕府の官僚として活躍してもらうにはよそ者のままではまずく、このことがきっかけで徳川家と運命共同体化したといった事蹟が求められたはずである。歴史的事実と認定された内容はその後ほぼそのまま系図伝の正式原稿となり、完成後はそのまゝ家光に閲覧された後幕府の書庫に格納された。幕府の要職者のみが閲覧することを許されたであろう。
この結果和田定教家は寛永諸家系図で神君の逃亡劇を支援したという事実を認めてもらったばかりでなく、この支援に対する家康の感謝状(誓状)をもらった事実を公認してもらい、かつその誓状が現在和田家に存在することまで公認してもらったのである。その誓状は幕府のしかるべき機関に提出されそれが60年前に家康自身が発行したものであることも証明してもらったのではないか。つまり誓状は本物であり、家康は間違いなく定教の世話になって生き延びたと認定されたのである。
さらにこの系図の大切なところは「甲賀の山路をへて御下向」と明記されている点である。この点は幕府の検閲の直接対象ではないが、定教は地元の甲賀武士であり実際に案内した本人であり、その本人しか知らぬルートを子孫が伝え聞いていたものとして幕府も黙認したものであろう。この際「甲賀」に加えて「山路」を通ったことを明示しており、小川から和田へ向かう道中の山道を指していて、石川忠総が言うような伊賀の平地を通るのとは全く異なることを指摘しておきたい。以上歴史史料として見た時の『寛永諸家系図伝和田定教家系図』の価値として幕府の官僚なり、老中なり、あるいはひょっとして将軍家光の意向がどこまで史料価値を貶め得るかを考えたとき、潤色があったとは認めがたく、むしろ逆に検閲が行われたこと自体が歴史史料としての真実度や信頼度を高めるものであったと云えよう。
ここでもう一度石川家系図に戻ろう。石川忠総は石川家を家督相続して約30年、この間大垣、日田、佐倉等の地方の藩主を歴任し、膳所の城主になって約10年、そこへ寛永の書上の提出要請があったので、満を持して石川家の家康への貢献をフルに書いた系図を提出したはずである。膳所に居る長所を生かして、担当者に詳細調査をさせ、あるいは参勤の合間には自身でも調べた上で、先祖たちがこんな貢献をしたと詳細に書いたであろう。しかし幕府の方針で各家統一でバッサリと切り落とされたのであった。
そこで石川忠総が選んだ道が、その他のいくつかの歴史記録とともに「神君伊賀越え」の”調査結果”を私的にメモ書きとして発表したものと思われる。しかし、この”調査”には三つの重大なミスが発生した。
①忠総が60年間聴取できた相手はすべて江戸の御家人仲間、藩主仲間であったため、誰一人本当のルートを知っている人物から聴取できていない。例え実父であれ養父であれ、連れまわされた身では田舎の山道を覚えているはずもなく、真実を知らない人間から聞いても決して真実には到達できない。
②当時80歳代ながら膳所から馬で2時間の距離の多羅尾村に事件当時和田定教とともに案内した本人である多羅尾光太(元初代多羅尾代官)が生存していたにもかかわらず、忠総は面接して聴取していない。忠総が真実に近づけた唯一のチャンスを逃した致命傷であった。
③忠総は文中において伊賀丸柱村で家康一行をもてなすため宮田なる人物を登場させるが、この宮田なる人物は天正9年の天正伊賀乱で没落しており天正10年には不在のはず。またこの直後発生した第三次天正伊賀乱でも宮田氏城が現場の一つになっているが、宮田氏の影が見えない。さらに村の明治時代の文書記録でも宮田の存在は否定されている。すなわち没落を意味する。要するにこれは忠総が作ったフェイクニュースである。
以上纏めると『石川忠総留書』は史料批判に耐えられず、家康の逃避行を論じるための史料としては役に立たない。他方『寛永諸家系図伝和田定教家系図』は系図史料であるにもかかわらず、幕府の検閲や審議を通過した 可能性が高く、甲賀越を支持する信頼度が高い史料であると云える。(以上)