先頃久方ぶりに油日神社の宝物館(実は甲賀市の歴史資料博物館でもある)を訪問して、改めて明応4年(1495)当時の油日神社の再建時の棟札の中に多くの甲賀の武士たちの名前を見た時に、そうだこの欄に甲賀武士のことを書こうと思ったのでした。ところが実際には何をどう書くのか考えがまとまらず遂に3週間以上が経ってしまったのです。実は考えがまとまった訳では全く無いのですが、何回かに分けていくつかの方向から甲賀武士のことを書くことでお許しいただこうかなと思い至った次第です。
先ず最初に「甲賀武士」という言葉そのものが大正15年発行の『甲賀郡志』で初めて使用された近代の造語であることを指摘しておきたいと思います。『甲賀郡志』自身が指摘しているように「甲賀武士」が意味する者達とは、その者達が実在した時代には、甲賀侍、甲賀衆、甲賀者、時には甲賀之賊徒などと呼ばれていた者達のことなのですが、実は中世から戦国時代にかけて関東武者でさえそうであったように、基本的に農地に密着して、つまり農村に居住して、領地を守るために武門としても戦うといういわば半農半武の存在であったといえる様です。甲賀では天正13年(1585)秀吉による甲賀破却(甲賀ゆれ)によってこのような半農半武の甲賀武士たちのうちの有力者約20家が領地没収・追放されるまで、彼らによる自治(甲賀郡中惣)が全郡的に行われたのでした。
訪問した油日神社では、同行したのが杉谷の望月孝幸さんだったこともあって、1495年当時の寄進者の中に望月氏が含まれているかどうかが宮司さんとの会話の中で話題になりました。私はウロ覚えであったのですが望月氏も寄進しているのではないかと申し上げたのですが、その場では棟札の中では確認できませんでした。宮司さんからは『油日神社関連文書集』にある棟札の翻刻資料を確認していただき、帰りがけにやはり望月氏は寄進者には含まれていない様ですとご報告いただいたのでした。そこで帰宅後『油日神社関連文書集』をじっくり再調査したのですが遂に「村嶋殿」という記載を見つけました。この人物は当時柑子村に村嶋城を構えた甲賀望月氏の中心人物の一人で、この後新宮城へ帰城するという記録を残しております。つまり望月氏は代表者が油日神社の再建への寄進に他の多くの甲賀武士たちと共に参加していたということです。ところでこの棟札での記載が「村嶋殿」となっていて「望月殿」となっていない点は、全く珍しいことではなく、幾人もの同姓者がいる場合の区別や時には有る種敬意を含めて名前や地区名などに殿を付けて呼んでおり、他方で社家や寺院等は呼び捨てで殿をつけないで書かれています。
これと同じことが前述よりも約100年早い14世紀末の飯道寺への「大般若経寄進者名簿」にも認められます。68名の寄進者名の中に5名の「殿つき」の名前があり、その中の2名が「望月氏」と「鵜飼氏」であるとされています。つまり望月氏は当時近隣の鵜飼氏と共に14世紀末の時点に於いて、すでに「望月殿」と呼ばれるに値する存在、つまり甲賀武士に相当する存在になっていたことを示しています。因みにこの記録は現時点では甲賀望月氏の初出文献であろうと云われています。ここから想像の翼を広げると、室町幕府の御前落居記録(1431)や地元の中世文書(山中文書、佐治家文書)などを読み解くことでこの前の百年である1300年代の南北朝時代の間に甲賀望月氏は北朝に繋がる足利氏や佐々木氏に取り入って成り上がっていったのではないかと推定できるのです。シュリーマンのように勝手に思い込んでおります。
前述の望月村嶋が帰城したという新宮城のある新宮上野村(現甲賀市甲南町新治区)には文明17年(1485)に建造された新宮神社(新宮寺)の楼門(国指定重要文化財)が現存し、応仁の乱で都や各地が戦乱で荒れ果てている中、当地を支配していた望月氏は大きな勢力圏(塩野村、山上村、杉谷村、柑子村、野田村、龍法師村、一時は深川村も)を築き、新宮神社(1485)や油日神社(1495)に寄進を繰り返し、経済的にも心の面でも豊かに暮らしていたことが想像できます。