当ホームページ閉鎖のお知らせ 2025.03.24 ブログ 急なことで恐縮ですが諸般の情勢から当ホームページを一週間後の3月31日をもって閉鎖します。 85才になった日にスタートしたホームページでしたがさすがに老人には無理なところもあって87才4か月で終了することにしました。この間応援いただいた方もありましたがどうやらご迷惑をおかけした方が多
史料批判『寛永諸家系図伝和田定教家系図』と『石川忠総留書』 2025.01.18 ブログ 天正10年本能寺の変での信長の横死を受け、徳川家康が少人数で訪問中の堺から岡崎へ駆け抜けた際、従来は「伊賀を通った」とする説が幅を利かせていたが、近年は「伊賀ではなく甲賀ではないか」又は「伊賀を通ったとしてもほんの少しで大半は甲賀を通った」とする説が有力となりつつある。中には大和を通ったなどと
「神君甲賀伊賀越え」の真相Ⅱ <実は「神君実質甲賀越え」が正しい> 2024.12.28 最新論考 私は先に「神君甲賀伊賀越え」の真相として何ヶ所かで発表してきた。しかしその後若干の気付きや発見もあったので、この際ver2兼最終版として本ホームページ上に真相Ⅱを掲載することとした。「神君甲賀伊賀越え」の真実Ⅱ <実は「神君実質甲賀越え」が正しい>
天正伊賀乱(信長の伊賀攻め)について 2024.09.12 最新論考 天正伊賀乱については昭和の時代でも伊賀の各市町村史で軍記物小説である『伊乱記』をなぞったことしか書かないという異常さであった。やっと平成に書かれた伊賀市史で『伊乱記』が否定され『信長公記』の方が正しいと云われるようになったばかりである。しかしそれでも伊賀市史にはまだ『伊乱記』に頼る部分がある。
「神君伊賀越え」説の不合理点の論点整理 2023.09.08 ブログ ーひとつでも確証を以って反論できますか、このほかに甲賀を推す論拠もありますー はじめに 天正10年(1582)6月2日未明、明智光秀の謀反により京都本能寺に於いて織田信長が自害したいわゆる本能寺の変が勃発した時、徳川
NHK大河ドラマが流す害毒 2023.07.24 ブログ 昨日NHK大河ドラマ「どうする家康」を見ていて、作家のあまりにひどい歴史曲解ぶりに唖然として、暫く休んでいたこのブログを再開しようと思うに至った次第。いくら創作ですと云われても、多くの国民が視聴している公共電波それも国民の税金に近い視聴料で賄われている電波のゴールデンタイムの番組では、作家は余
甲賀武士について(4) 2023.06.22 ブログ 従来甲賀武士という時は、上甲賀郡と呼ばれることもあった野洲川と支流杣川の上流部分に居住する半農半武の武士たちを無意識に想像しながら話していた気がします。なぜそうなったのかは正直よく分かりませんが、ひょっとして江戸時代になって武士になった甲賀者の多くがこの東部地区の出身者であったからかもしれませ
甲賀武士について(3) 2023.06.10 ブログ 今回は、甲賀武士について現代の郷土史誌である『甲賀市史』はどう取り扱っているのかを見てみたいと思います。主として『甲賀市史』第2巻(中世)と第7巻(甲賀の城)そして第8巻(甲賀市事典)に甲賀武士についての言及が見られますが、第2巻の「はじめに」にうまく要約されている個所がありますので、そこの部
甲賀武士について(2) 2023.06.04 ブログ 「甲賀武士」という用語そのものは大正時代に発刊された『甲賀郡志』に由来することを前回申上げました。しかし厳密に申し上げると、江戸時代前期に彦根藩に献上されたとされる『淡海温故録』には既に「甲賀武士」なる語が用いられていて、『甲賀郡志』ではその語が現代語として採用されたと云えます。今回はその『甲
甲賀武士について(1) 2023.06.01 ブログ 先頃久方ぶりに油日神社の宝物館(実は甲賀市の歴史資料博物館でもある)を訪問して、改めて明応4年(1495)当時の油日神社の再建時の棟札の中に多くの甲賀の武士たちの名前を見た時に、そうだこの欄に甲賀武士のことを書こうと思ったのでした。ところが実際には何をどう書くのか考えがまとまらず遂に3週間以上