「神君伊賀越え」説の不合理点の論点整理 2023.09.08 ーひとつでも確証を以って反論できますか、このほかに甲賀を推す論拠もありますー はじめに 天正10年(1582)6月2日未明、明智光秀の謀反により京都本能寺に於いて織田信長が自害したいわゆる本能寺の変が勃発した時、徳川
NHK大河ドラマが流す害毒 2023.07.24 昨日NHK大河ドラマ「どうする家康」を見ていて、作家のあまりにひどい歴史曲解ぶりに唖然として、暫く休んでいたこのブログを再開しようと思うに至った次第。いくら創作ですと云われても、多くの国民が視聴している公共電波それも国民の税金に近い視聴料で賄われている電波のゴールデンタイムの番組では、作家は余
甲賀武士について(4) 2023.06.22 従来甲賀武士という時は、上甲賀郡と呼ばれることもあった野洲川と支流杣川の上流部分に居住する半農半武の武士たちを無意識に想像しながら話していた気がします。なぜそうなったのかは正直よく分かりませんが、ひょっとして江戸時代になって武士になった甲賀者の多くがこの東部地区の出身者であったからかもしれませ
甲賀武士について(3) 2023.06.10 今回は、甲賀武士について現代の郷土史誌である『甲賀市史』はどう取り扱っているのかを見てみたいと思います。主として『甲賀市史』第2巻(中世)と第7巻(甲賀の城)そして第8巻(甲賀市事典)に甲賀武士についての言及が見られますが、第2巻の「はじめに」にうまく要約されている個所がありますので、そこの部
甲賀武士について(2) 2023.06.04 「甲賀武士」という用語そのものは大正時代に発刊された『甲賀郡志』に由来することを前回申上げました。しかし厳密に申し上げると、江戸時代前期に彦根藩に献上されたとされる『淡海温故録』には既に「甲賀武士」なる語が用いられていて、『甲賀郡志』ではその語が現代語として採用されたと云えます。今回はその『甲
甲賀武士について(1) 2023.06.01 先頃久方ぶりに油日神社の宝物館(実は甲賀市の歴史資料博物館でもある)を訪問して、改めて明応4年(1495)当時の油日神社の再建時の棟札の中に多くの甲賀の武士たちの名前を見た時に、そうだこの欄に甲賀武士のことを書こうと思ったのでした。ところが実際には何をどう書くのか考えがまとまらず遂に3週間以上
甲賀流リアル忍者館で思ったこと 2023.05.08 今年のゴールデンウイークも終りになったが、期間中に次男と甲賀流リアル忍者館を訪ね、我が家の文書や屋敷跡がどんな風に展示されているかを案内して廻った。実は今まで何十回と見て回っていたのに、展示の基本方針などにはアンタッチャブルで通して来た。これは行政の担当部署に希望を云って任せた以上横から兎や角
『忍者学大全』を前にして思うこと 2023.04.15 2023年2月22日付けで東京大学出版会から『忍者学大全』が出版されました。私にも届けてくださる方がおられて、お陰様で早々に拝見する機会を得られました。40人になんなんとする執筆者と500頁を越える内容はそれなりに迫力があり納得させられる項目も少なからずあります。85才にもなるとこれだけ分厚い
六角氏終焉の城石部城跡を訪ねて 2023.04.06 昨日、近江歴史回廊倶楽部の上嶋氏のご案内を得て、夏見城、針城、平松城、宮島城、丸岡城、石部城など野洲川の南側の丘陵上に並ぶ旧下甲賀郡の城跡を見学して廻りました。何れも保存状態は余り良いとは言えずどちらかというと城跡と認識することさえ困難なものもありました。しかし室町時代、戦国時代そして江戸時代
石川忠総が城主であった膳所城は今 2023.04.04 好天に誘われて膳所城址方面へ散歩に出かけた。桜が満開を過ぎ花吹雪が舞いだしていた。膳所城址公園正門公園の広場桜の老木(奥は琵琶湖面)琵琶湖と比良山(奥)と比叡山(左プリンスホテル後方) 戦国時代、比叡山の麓の坂本には信長が光秀に作らせた坂本